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ホーム > WEBマガジン SHINKAWA Times > コラム > 金子 成彦 > 大学が変わるべきところ守るべきもの(研究環境の来し方行く末)
掲載日:2017年02月07日

大学が変わるべきところ守るべきもの(研究環境の来し方行く末)

東京大学 大学院工学系研究科 機械工学専攻 教授  金子 成彦

 

 

 

東京大学  大学院工学系研究科
機械工学専攻  教授  金子 成彦
第90期日本機械学会会長
日本学術会議連携会員
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小学校の講堂にかけられた額の文字

 今回は前号の続きの額の文字の話から始まります。

 小生が卒業した小学校の先輩に、東大機械の大 OB である鮎川義介(あゆかわよしすけ)氏がおられます。この小学校は、明治 7 年創立で、長州藩の学舎、山口明倫館の跡地にありました。講堂には鮎川氏の書かれた額が飾ってあり、そこには、『個性尊重天分発展』と書かれていたことを今でも鮮明に憶えています。

 ご存知の方も多いと思いますが、鮎川氏は、1880 年、山口市に生まれ、旧制山口高等学校を経て、1903 年、東京帝国大学工科大学機械科卒業後、芝浦製作所に入社。1909 年に戸畑鋳物(現在の日立金属)を設立。1928 年に久原鉱業(現在の日産自動車)の社長に就任し、この会社を持株会社に変更し、傘下に日産自動車、日本鉱業、日立製作所などを収め、日産コンツェルンを形成した人物として有名です。後年は中小企業の育成に注力し、日本におけるベンチャーキャピタルの先駆けとなりました。

 また、戦前の新興財閥「日産コンツェルン」の総帥として、金融や貿易を柱とした三井、三菱とは違い当時最先端の重化学工業を中心に経済を引っ張り、日本の満州経営にも大きく関わりました。しかし、鮎川氏は財閥のトップとしては珍しく、受け継いだ事業を守り大きくするタイプではなく、いくつもの企業をつくり育てられました。さらに日本の工場から米国の鋳物工場に渡り一介の作業員として働き、もの作りの現場も熟知していました。知識と体験のバランス重視の鮎川氏の学びの姿勢は、東大工学部の前身である工部大学校の創始者である山尾庸三卿を彷彿とさせます。

 小生は、偶然にも鮎川義介氏と小学校から大学まで同じルートを辿りました。

自分自身の教育経験

 さて、小生自身は、全国に設置された理数科の1期生として山口高校理数科を卒業し、東大機械にお世話になりました。このご縁で、目下、いくつかの高校で文部科学省の SSH(スーパーサイエンスハイスクール)の運営指導委員を務めています。また、学内では、学部・大学院の講義・演習の他に博士課程の横断型講義(博士 PBL)の教員を務めています。最近では、大学院博士課程修了後の若手教員と一緒になって研究室の学生を指導する機会も多々あります。したがって、15歳から30歳位まで、幅広い年齢層の学生や研究者とお付き合いがあります。

 卒業研究では、様々なタイプの学部学生が研究室にやってきます。段取り力が身についていない、仕事の大きさが読めない、仕事のペース配分にムラがあり時間管理が出来ない、自分の興味のゾーンにはまると深く掘り下げようとするものの、知識が上滑りしていて有意な結論を導き出すまでには至らない、といった、いわゆる「ゆとり教育世代」の特徴を持つ学生が多くなっています。一方、自分自身で考え抜くことによって独創的な仕事が出来る学生もいます。大学院生になると他大学出身の志の高い学生が内部出身の学生に混ざり、研究室メンバーはバラエティに富んでゆきます。このような状況下で研究指導を行っていますが、『個性尊重天分発展』は、私の教育観の原点であり、丁寧に資質を見極めて学生や若手教員個々人の天分を可能な限り伸ばしてあげたいと考えています。

法人化から13年経過した研究室内外の変化

 国立大学が法人化されたのは平成 16 年 4 月で、それから既に 13 年が経過しました。国立大学の運営費交付金が年々減少しており、大学から教員に配布される交付金(昔は校費と呼ばれていた)が研究室を運営するために必要な金額とは比較にならないほど少なくなり、競争的資金と呼ばれる省庁のプロジェクト研究費や企業との共同研究費に頼らざるをえなくなっている状況がマスコミ報道や大学から発信される資料を通じて伝えられています。基礎研究がおろそかになるという声も上がっており、機械系では、いわゆるアンダーザテーブル研究(過去に失敗したテーマだけれどもこっそり研究を続けたいテーマについての研究)がやりにくくなっています。その上、装置の故障に対する備えも万全ではなくなってきています。

 また、若手の研究者も任期付きが多く、短期間に業績を上げる必要があり、我々の世代が経験してきたような、じっくりとスキルや専門知識を身に着け、学会活動を通じて視野を広げ、企業の実務関係者との連携によって問題発見能力を身に着け、新たなテーマを発掘できるような機会が減ってきたと感じています。若手研究者にとっては科研費が研究費の中心ですが、こちらも採択率は30%程度で、運よく採択されたとしても申請金額の80%配布ということになっていて、気の毒な状態が起きています。

 さらに、研究支援体制についても十分とはいえません。その昔は、技官や助手が研究室にはおられて、実験装置の設計、製作、発注業務を手伝って頂けたものです。また、学内の試作工場では、卒論用の実験装置を自分で機械加工して部品を作るといったハンズオンの伝統もありました。締め切りぎりぎりに完成した装置でデータが取れて卒論に間に合ったときには、機械科に進学してよかったという喜びを感じていたものです。最近は、如何でしょうか。試作工場に6名程度おられた技官の方も名称が技術専門職員に代わり、現在では1名しかおられません。時間の掛かる少し凝った加工は学外に頼むしかありません。また、研究室の装置の動かし方を知っておられる助手の方も最後の方が来年定年を迎えるという時期に差し掛かっています。

 今年、卒論の試問に立ち会って、研究対象の領域は違っていても取り組みの仕方が似通ってきていることに気づきました。欧米製の計算ソフトを使って解く問題をテーマに選んでいるケースが多く、自作ソフトや手作りの装置で問題解決に挑戦している学生が少なくなっています。これも、法人化によって研究スタイルが変化してきたためかもしれません。

 このように、法人化の影響は、じわじわと研究のやり方や学生の研究姿勢にも変化を与えています。仮説の上に仮説を重ねて考え抜く経験が不足していることが創造力を生み出せないことに直結しているように思えてなりません。

 しかしながら、研究室という「場」は、法人化前と変わらない一面も持っています。それは、学生同士でもすぐに議論を始めることのできる点です。 自説をぶつけ合い、アイデアが熟成するまで議論に付き合ってくれる先輩によって研究は進展します。学生が加速感を感じることができれば、学生の側から先輩に対する尊敬の念が生まれてきます。

 くしくも、鮎川氏は次の言葉を残しておられます。「われわれが生きるうえでもっとも大切なのは、心の通じ合う少数の仲間との、暗黙のうちにおこなわれる濃密なコミュニケーションである。それが知恵をはぐくみ、生きる勇気を与え、創造活動の源泉となる。ヒトとはそもそもそういう生物なのである。」

研究成果発表方法の変化

 研究成果の発表についても変化が見られます。小生が学生の頃は、入社後に修士論文の研究成果を学会発表するのは出張扱いと見做されていて、秋に開催される学会で発表することを支援してくれていました。苦労してモデルを作り、実験データを取り、仮説を検証した話を本人が熱く語るものでしたから、講演会場は大いに盛り上がり、質問も多く出ました。

 今はどうでしょうか。代理で研究テーマを引き継いだ修士1年生が発表しているケースが目立ちます。これでは、聴衆が受け取るインパクトは小さいでしょう。

 論文集にも変化が見られます。機械工学分野では、日本機械学会論文集がスタンダードでした。この論文集に自分の研究論文を掲載してもらえるということが一つの目標でした。初めての論文が掲載されたときは厳しい先生方に認めてもらえたという喜びを感じたものです。この頃の日本機械学会論文集には討論が付いていて、学会の講演会場での質問を文章化したものとそれに対する回答が論文と一緒に掲載されていました。これが消えたのはとても残念です。質問者と著者の迫力のあるやり取りから多くのインスピレーションを頂きました。最近は、有名な英文雑誌に掲載されることに価値があるとされています。これは、優秀な留学生を引き付けるためにはそれでよいのでしょうが、日本国内の技術者と交流するためには昔のスタイルの日本機械学会論文集の方が適していると考えます。研究成果の発表方法に関してもバランスをよく考える必要があります。

研究環境改善に向けて

 このような大変な環境に置かれている大学研究室を蘇らせる名案はないものだろうか? 若手を元気づかせるアイデアについて考えてみました。

科研費の在り方

 現状の科研費は、通常はお金で支給されますが、若手研究者が必要なものは研究に必要な機材や計算機、ソフト使用料、旅費が中心です。これを物品と搭乗券や乗車券・特急券などの現物支給に変えたらどうなるでしょうか。基本的な実験には何も新品の計測器である必要はなく、整備状態の良い計測機器が来れば問題ないはずです。定年退職される先生は不要になった機器を有効活用してくれる若手研究者が生かして使ってくれたら嬉しいのではないでしょうか。大学には備品台帳があり、物品管理はしっかりしているはずです。ただし、活用してもらうには、きちんと動く状態に整備する作業と取扱説明書をつけてあげることが必要です。また、一緒にセットアップを手伝ってくれる人が付いてきてくれて、慣れるまで研究室で指導してくれる仕組みも必要です。「科研費 IoT」とでも呼べる「物」、「機材」を再利用し活用する仕組みに発展させることができればと思っています。

 機器メーカーにも賛同頂ければ、長い目で見た「研究室実験環境支援活動」として官、学、民のネットワークに発展するのではと思います。

 国としても、科学技術立国を担う若手のモティベーションを高め、研究活動を支援するために是非取り上げて頂きたいものです。

開かれた研究室へ

 歴史のある組織では、関係者も幅広い業界・年代にまたがっています。昨年、小生の研究室で OBOG を集めて恩師の叙勲祝賀会を開催しました(写真 1、2)。研究室創設当時の卒業生から最近までの学生まで合わせると関係者の総数は 430 名に達していました。幹事団の熱心なご協力によって足掛け 2 年掛かって OBOG 名簿を整備し、連絡が取れなくなっている OB は 10 名以内までに漕ぎつけることに成功しました。この過程で、製鉄業の OB にはほとんど連絡が取れました。逆にダメだったのは情報通信、電機でした。装置産業では、古い装置で事故が発生した場合には、設計に関係された方のコンタクトが必要な場合を想定して人間関係が繋がっているのかもしれません。

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写真 1:葉山先生叙勲祝賀会

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写真 2:瑞宝中綬章

 さて、就職活動についても、かつては就社と呼ばれていましたが、最近は就転により 、入社後にどのような業務に携わらせてもらえるのかが決め手になっています。学生の関心の高い情報は人事担当者からというよりも入社後 5 年程度の OB からもらえるケースが多いようです。したがって、OBOG との良好な関係を維持するためにも定期的な付き合いは大切です。しかし、研究や日常業務で忙しい若手に会の運営は重荷です。学科の同窓会、研究室の OB 会の運営はできる限り簡略化して、シニア OB が運営に積極的に参加し、研究室内の学生や若手と学外との交流促進に貢献する時代になったと感じています。

おわりに

 鮎川義介氏が創設された日産自動車はご存知のように連続赤字を出し続け、1999 年にルノーの傘下に入りました。その時に経営立て直しのリーダーとして派遣されたのがカルロス・ゴーンでした。(偶然、2017 年 1 月の日経新聞『私の履歴書』執筆者はカルロス・ゴーンでした。)彼は、NRP(日産リバイバルプラン)を提案し、日産は利益を出すところまでよみがえりました。これは日産の V 字回復と呼ばれています。大学も、様々な改革の実を結ばせて日産の再生のように早く困難な時期から脱却して飛び立って欲しいものです。(写真 3)

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写真 3:シベリア上空にて(執筆者撮影)

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