株式会社オーパス・スリー 代表取締役

岡本 浩和

株式会社オーパス・スリー 代表取締役
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株式会社オーパス・スリー 代表取締役
キャリアコンサルタント
米国CCE, Inc.認定GCDF-Japan キャリア・カウンセラー
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1964年 滋賀県生まれ
1988年 早稲田大学第一文学部哲学科社会学専修卒業
卒業と同時に株式会社NHKプロモーション入社。音楽イベントなどのプロデュース業に携わりながら、一方で人間教育分野にも強い興味を抱くようになる。
1991年 ベンチャー系人材開発、教育会社に転職
以後2007年1月まで16年間にわたり大学生の就職支援、若手社会人のためのリーダーシップ研修、ストレ ス・マネジメント研修、コミュニケーション研修など500回以上のセミナーのファシリテーション業務を通じ、延べ10,000人に及ぶ個人カウンセリング を経験。
2007年 独立とともにOpus3(オーパス・スリー)創業
2009年 株式会社オーパス・スリー設立、代表取締役に就任
法人向けの新人研修やマネージャー研修、独自の組織活性研修などの企画運営&講師として活動す るほか、首都圏の大学にて「キャリアデザイン」の講義を担当。また、個人を対象に「ワークショップZERO(東京&名古屋)」を主宰、日々「人間教育」に 情熱を傾けている。

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アレグロ・コン・ブリオ~第6章
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前 2 回はバロック期ドイツの作曲家 J.S.バッハと、同じくドイツに生まれイギリスに帰化した、バッハと同年生まれのヘンデルについて書きました。今回は、同じくバロック期イタリアはヴェネツィアに生まれ、イタリアを中心にヨーロッパ各地で活躍したアントニオ・ヴィヴァルディを採り上げます。

残念ながらヴィヴァルディについては評伝も少なく、先のバッハやヘンデルと比較し、その生涯については謎が多く、正確なことはあまり詳しくわかっていないというのが実情です。また、作品数も膨大で、しかもそれぞれがいかにも似通った曲調が多く、そのすべてを把握することはとても困難です。しかし、有名なヴァイオリン協奏曲「四季」などは、実演にせよ音盤にせよ幾度聴いても心を動かされる名作で、未聴だという方には是非とも全曲に触れる機会を持っていただきたいと思うのです。この作品を残したというだけでもアントニオ・ヴィヴァルディの名前は永遠だからです。

アントニオ・ヴィヴァルディ

ヴィヴァルディは 15 歳で剃髪し、僧籍に入りました。教会では相応の職務を果たしたとはいえ、ミサ中に持病の喘息の発作が出ることしばしばで、そのおかげでいわゆる在家の僧侶としての活動に限定され、最終的には、孤児院での音楽の教師としての職に就くことになりました。その孤児院がピエタ女子養育院です。ここで彼は何十年にもわたって教鞭を執ることになるのですが、さすがに音楽教師としての彼の力量も立派だったようで、毎週末開かれる演奏会は大変な人気を博し、絶賛を浴びました。また、在籍する生徒たちの音楽性も非常に高かったことから、ヴィヴァルディは演奏会のために数多の作品を作曲しなければならず、それが結果的にたくさんの作品を生み出すことにつながりました。

ちなみに、一介の音楽教師であったにもかかわらず、ヴィヴァルディの作品は早いうちから出版され、ヨーロッパ中に知れ渡っていました。それによってバッハも彼の作品を研究することができたわけです。また、(現代では上演機会は極めて少ないものの)ヴィヴァルディは、1710 年代以降オペラも積極的に作曲しており、それが各地で盛んに上演されていたことも、彼の名をヨーロッパ中に知らしめることになりました。

歴史に名を残す作曲家は、必ずと言っていいほど、何か新たな試みをしているもの。バッハが、いわゆる現代の音楽の基本となるドレミファ、すなわち平均律を確立したのに対し、ヴィヴァルディは、バロック期の楽曲形式のひとつである協奏曲形式、すなわち 3 つの楽章を持ち、それぞれが「急―緩―急」というテンポが設定される方法を編み出しました。さらには、総奏と独奏が交互に現われ、それぞれが異なる曲調となるリトルネッロ形式を生み、それを世に広めたこともこの人の功績といわれます。

ヴィヴァルディは情熱溢れるオペラ・アリアのペーソスを緩徐楽章に持ち込んだ最初の作曲家であった。形の整った楽曲であるよりは感情の直接的な流露である。ここでは独奏者が感情のおもむくままに振る舞い、トゥッティは全く姿を消すか、ソロを囲む両端部分に限られることになる。

(東川清一) ~作曲家別名曲解説ライブラリー21「ヴィヴァルディ」(音楽之友社)

「感情の直接的な流露」という表現が実に巧みです。
聖職者であったヴィヴァルディにとって、俗世間と直接に交わる術はピエタ女子養育院での音楽教師という立場であり、ひょっとすると無意識に抑圧されていた感情が作品にストレートに投影された成果が緩徐楽章にあったのかもしれません。ちなみに彼は、様々な独奏楽器を伴う協奏曲を、生涯に 500 曲近く残したといわれています。
確かに、いずれにもある緩徐楽章の喜怒哀楽を伴う情感豊かな表情は、ヴィヴァルディの聴きどころのひとつと言えるでしょう。

ところで、先述の通り、同時代を生きたバッハは、ヴィヴァルディの音楽を相当勉強しました。自分にないものを徹底的に吸収しようとする貪欲さが、バッハの独自の創造力につながったのだと私は思います。

今から 300 年近く前、バッハは初めて見たヴィヴァルディの譜面に息を飲みました。「イタリア体験」の衝撃とでも言いましょうか、オランダに留学していたヨハン・エルンスト公子 が持ち帰った様々なスコアの中にそれらを発見し、バッハの胸は高鳴り、心踊ったのだと想像します。公子からヴィヴァルディの協奏曲を鍵盤楽器用にアレンジするよう依頼を受けたバッハはすぐさまその仕事を請け負い、以後ヴィヴァルディ研究に没頭したというのですから。このエピソードからもバッハの勤勉さが如実に示されます。

ヴィヴァルディの音楽の、いかにもイタリアらしい明朗で快活な音調。
それは、現代の私たちの耳にもとても心地良く響きます。彼の作品の中でも人口に膾炙した、誰もが知る名曲が協奏曲「四季」ですが、これは、「和声と創意への試み」という名の協奏曲集の一部です。ここで、彼はこれまでなかった(であろう)挑戦をしています。

すなわちそれは、ソネット(定型抒情詩)に忠実に音楽を付け、標題協奏曲としたことです。
それでは、実際にそのソネットを読みながら音楽を聴いてみましょう。

※参考音源
・ヴィヴァルディ:協奏曲「四季」
 ユリア・フィッシャー(ヴァイオリン)
 アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
 https://www.youtube.com/watch?v=kS-W3lfcVvY

~第 1 番ホ長調作品 8-1「春」~
まずは第 1 楽章アレグロを聴いてみましょう。

春がやってきた。
小鳥たちは嬉しそうに歌って、春に挨拶する。
泉はそよ風に合わせて、
やさしくささやきながら流れ出す。
やがて空は暗くなり、
稲妻と雷鳴が襲ってくる。
嵐が静まると、小鳥たちは再び
うれしそうに歌い出す。

ここだけを切り取っても、いかにヴィヴァルディが情景を見事に想像させる音楽を付したかです。ちなみに、第 2 楽章ラルゴには次のような詩が付いています。

花ざかりの美しい牧場では
木々の葉がやさしくざわめき、
羊飼いは忠実な必至をかたわらに眠っている。
何とも虚ろで柔らかな詩と音楽の交歓。

そして、弾けるように喜びに満ちる終楽章アレグロの詩は以下の通り。

牧歌的な牧笛の陽気な調べに合わせて
ニンフと羊飼いは踊る、
輝くばかりの装いの春の中に。

文字通り「輝くばかりの装いの春」の音化とでも言いましょうか、実に開放的で明朗な音楽は私たちの心の底に響くのです。

ヴィヴァルディの音楽は、彼が聖職者である一方、孤児院の音楽教師であったという、いわば二足の草鞋を履かざるを得なかったことによる「聖俗混淆」の奇蹟であると私は思います。独自の色合い、革新的でありながら、親しみやすい音楽は、一般の生活にまみれながらも深層の信仰心を常に忘れなかったヴィヴァルディの、産業革命以降、科学技術の発展と物質的豊かさを追い求め、その代償に自然を破壊し、心の安寧をどこかに置き忘れてしまった現代人への贈りものだと言えるのではないでしょうか。

ちなみに、1741 年 7 月末に、ウィーンで没したアントニオ・ヴィヴァルディの死の原因、詳細は、いまだよくわかっていません。葬られた共同墓地は貧民を埋葬するために使われていたこと、また葬儀にかけられた費用が最低のランクであったことは、晩年の彼の不遇を物語っていますが、たくさんの作品を出版し、金銭的にも裕福であったヴィヴァルディが、どうしてウィーンで、しかも、貧しい状態であったかは音楽史の謎のひとつです。

しかしながら、新しい方法を開拓し、数多の作品を世に残し、他の国の作曲家にも大な影響を与えたという意味で、アントニオ・ヴィヴァルディの名は永遠に不滅であると思います。