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東京大学 情報理工学系研究科
システム情報学専攻 教授 安藤 繁
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前回のWhispering Galleryに引き続いて、今回も人間の感覚や普段意識しない音に関するお話です。
私は、助教授時代、東京都の西部、調布市の電気通信大学におりました。
当時は大学で私の専門の一つの画像処理を専門とする方が少なかったこともあり、
市内の企業の方々と研究協力などでご一緒する機会が度々ありました。
ミーティングが終わると(たまにですが)駅の近くの小さな飲み屋さんに場所を移して「議論」を続けます。
そのよく行くお店のご主人はなかなか料理に工夫と機転がきく方で、
若い人が多くとなると、フライパン一杯の巨大かき揚げを揚げてくれたり、
閉店間際ちょっと足らないなという時に残った野菜をササッと炒めて出してくれたり、
アットホームな雰囲気で対話がはずみました。
ご主人や奥さんが山形出身、私も両親が山形出身ということでの親近感もあったかと思います。
その中で、炒め物のコツについて、
「炒め物は硬さが残る食感と熱さがおいしさのポイントだが、ただ炒めるとすぐしなっとなり、また冷めてしまう。
しかし、油を若干多めに使い鷹の爪(唐辛子)を入れると、
硬さが保たれ辛さが刺激になって長時間熱いままのように味わえる。
その証拠に英語でも辛いことをホット(熱い)と言うでしょう。」
のように話されました。
これを聞いて、
なるほど、料理人は味だけでなく他の感覚への働きかけにも注意を払い、
工夫を凝らすのだと大変感心するとともに、
食べる際の感覚の働きに大きな興味をもつことになりました。
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図1. お総菜屋さんや豚カツ専門店に並ぶコロッケや各種フライ。
いかにもサクサクそうに揚がったパン粉の表面とボリューム感は食欲をそそります。(店頭で筆者撮影)
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そのような中で、10年ほど前でしょうか、ある食品会社の方から相談を受けました。 冷凍のコロッケに何とかサクサクした食感をもたせたい。 ついては、色々な条件で作ったものを比較するため、 サクサク感を数値化するようなセンサが作れないだろうか、という内容でした。
私も、パン粉を付けた状態で冷凍したものを自宅で揚げるコロッケはよく作ることがありました。 しかし、揚げた後で冷凍したコロッケがあるというのは知りませんでした。 スーパーの冷凍食品売り場に行ってみると、確かにあります。 電子レンジでチンすると暖まってそのまま食べられるし、 その手軽さからよく弁当のおかずなどに使うもののようです。 なかなか良くできているようで、 確かに暖めた後でも衣の部分の硬さは残っているし、表面のとげとげした凹凸も感じられます。 しかし、噛み砕いてゆくときの感覚は、揚げたばかりのコロッケとはどう見ても違うな~という印象です。
そこで、担当の助手や学生院生を誘って、トンカツの有名店でまずは食べてみようということになりました。 期待に胸おどらせた私どもの前に出てきたコロッケは、 まずは揚げ上がったパン粉の豊かな凹凸感とボリュームが全く違い、食欲をそそります。 食べてみると、口の中いっぱいに同時にサクサクと砕け散る感覚の後で、 中の柔らかい身が「熱ッ熱ッ」とばかりにこぼれ出ます。 「やはり全~然ちがうね。」などと言い合いながら満足感にひたると同時に、 われにかえってその印象の由来を考えてみて、 最初に噛んだ時に口の中いっぱいに砕ける音の広がり、 かみ砕く際にも両耳にあふれる音がポイントではないかと強く感じたところでした。
そもそも、食感は、美味しさを決定する要因として、 香りや味のような化学的な要因と同様、非常に重要なものです。 食べ物のテクスチャー(質感)とも呼ばれ、 「口当たり」や「歯ごたえ」や「舌触り」など、人それぞれ、色々に表現されます。 食感に関する研究は、視覚や聴覚に比べると、まだ歴史は浅いようですが、 大きく分類すると官能評価と物性測定の2つの方法論で研究が進められています。 官能検査とは、多くの被験者に実際に試食してもらい、 その主観的な評価を理解しやすい言葉や段階的数値で表した結果をまとめたものです。 消費者の好みの把握や商品のターゲットの絞り込みなどには大変強力な方法論ですが、 評価の条件が一定しないため、 食品同士の相互比較を行うような客観性にはかなり問題があります。 これに対して物性測定(テクスチャー測定)とは、 咀嚼過程における食品の挙動の分析に基づき、 これをシミュレートする環境の中で測定機器を用いて力学的特性やその変化などを測定します。 この結果は、感覚的な評価と対応するような数式のモデルやそのパラメータとしてまとめられます。 「歯ごたえ」や「嚼み心地」の例で言うなら、 今では、クリープメータと呼ばれる人工的な噛み砕き動作下での破断強度の測定により、 多くの食品のレオロジー(変形と流動に関する学問分野)的性質が定量化されるようになっています。 この結果は官能検査の結果に対応付けられ,加工食品の品質向上や品質管理にも盛んに用いられています。 明瞭に定義された物理量を限りなく正確に測ることも計測ですが、 「食感」のように未だ客観化されていない「量」にモデルを与え、 それを定量化するセンサを開発することも、計測の大変大事な役割です。
図.2 人間の頭蓋骨模型を右側から見たもの。
赤く囲んだ部分の中心が耳の穴で、下顎、上顎との位置関係に注意。
耳の振動検出機構である蝸牛は、
鼓膜を介して正面から入る空気伝道音と、
骨を介して側面から入る骨伝道音の両方に感度をもつ。
さて、本題の聴覚が主要な役割を果たすサクサク感というのは、 何が要因で、どうやったらモデル化できるのでしょうか。 またどうやったら食物から定量化できるのでしょうか。
人間の聴覚の主たる役割は、言うまでもなく周りの音を聴くためのものです。 一方、食品を咀嚼する際の音というのは、どのような仕組みと経路で耳に届いているのでしょうか。 私は、思い当たるところがあり、 これを皆と確かめようと人間の頭蓋骨の模型を手に入れました。 左の写真はそれを側方から見たものです。 骨の中にぼつんとあいた耳の穴が、ちょうど顎の付け根に位置しているのは偶然でしょうか。 歯を中央部の一帯に固定した顎が延びてその末端は耳につながり、 まるで振動(骨伝道音)を導く線路のようです。 上の歯からはどうかというと、 上顎から耳までは顔全体の骨を経由するので届きにくいかなと思うと、 実は上顎から耳に向かってまるで音を伝えるバイパスのようなほお骨が伸びていて、 その長さは下顎とほぼ同じに見えます。 他の動物はどうかと、さっそく自宅の犬や猫を観察するとまったく同じです。 耳介は頭の上に伸びていて人間のように側頭部下寄りにある印象とは違いますが、 これはむしろ人類の都合で 耳を顎の付け根に固定したまま脳の体積を増大させた結果ではないかと想像されます。 要するに顎と耳は外来音と咀嚼音の検出の両立のため「密接不可分」で、 歯が噛み砕いた音は骨伝導音となり、 上下の歯については同期して、 左右に並んだ歯については位置に応じた遅延をともなって 左右の耳に到達する仕組みになっていることは疑いありません。
聴覚による咀嚼音検出がこれだけ重要なのは、 一つには異物検出のためです。 飲み込む前に食物をいわばオンライン検査することで、 飲み込んで生じる生命の危険を未然に防ぎます。 もう一つの役割は食物の硬さ、砕けやすさ、粒度などの物理的性質の検出で、 新鮮さや消化しやすさの把握や、食べやすさや好みなどの食感へとつながってゆきます。
そこでとった私たちのアプローチですが、 皆で試食したコロッケの砕け散る音の広がりがあまりに印象的だったので、 聴覚の定位感との関係で新しい方法を生みだそうと考えました。 もともと私は、音がどの方角のどのくらいの距離から到来したか、 すなわち音源定位に関しては、30年以上前から研究の対象としてきました。 人間は両耳の時間差と強度差を主要因として音源を定位していると言われています。 音の粒立ちが明瞭な音についてはその通りと言えますが、 不思議なのが「広がり感」と言われる感覚です。 個別の音に注意を向けるような感覚というよりは、 漠然と空間分布の広がりを捉える感覚で、音環境の心地よさに深いつながりをもっています。 例えば、コンサートの演奏が終わった後に自分のまわりの客席全体から巻き起こる拍手の音、 ある意味では演奏以上に、会場に一体化する臨場感と感動が得られます。 森のキャンプ場の朝に小鳥のさえずりに囲まれる感覚、 長い砂浜で横一線に波が砕ける音の広がり、 眼前に流れ落ちる滝つぼの水しぶきの音、みな同じです。
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図3. 私たちが作成したサクサク感定量化システムの写真。
中央部の「歯」で食品をはさんで噛み砕き動作をさせ、
発生する振動を「歯」で拾って上下の水平な金属棒の「顎」で両端のピエゾ振動センサに伝える。
上下に大きく見える矩形で「顎」を粘弾性的に支持し、
高周波の縦振動のみに感度を持たせ、モータの駆動音を除いている。
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上の図は、このような経緯で私たちが最初に作成した装置の写真です。 詳しく書くと技術解説になってしまうので避けますが、 音の発生部と振動取り込み部の「歯」と伝導部の「骨」の接続部、 「骨」の末端の振動検出部の「耳」の構造、またそれらの支え方、 かみ砕きの際の食品に応じた押し下げ力の与え方などに、試行錯誤と工夫があります。 「歯」から入った音の高周波成分は「骨」に伝わり、 歯の位置に応じた左右の時間遅れをともなって「耳」に伝わります。 聴覚系を模した音源定位の信号処理アルゴリズムは、 非常に時間分解能の高い音源定位を可能にします。 明瞭な粒立ちの音についてはその時間差と強度差を検出し、砕かれる食べ物の位置を定位します。 同時に重なりあって1個1個の音の粒たちが正確には定位できなくとも、 異なる位置の音源からの寄与がどれだけどのように混じっているかを判定します。 これが私の定義した広がり感で、 音源の分布の広がりに関連付けられます。 もちろん、同時に発生した音自体の時間周波数解析や振幅分布解析、 およびそれらの時系列的分析も行って、かみ砕く食品の素材感も多様に抽出します。
これらの研究には、当時の助手とともに、 1名の卒論生、1名の修士大学院生が約2年にわたり関わりました。 学会発表は何度か行い、論文発表もしましたが、まだ実用化には至っていないようです。 私どもの提案が受け入れられ応用が広がってゆくには、 計測技術としての信頼度と完成度を高める、さらなる工夫と継続的な努力が求められます。 このあたりは我々の研究に足りない面かななどと、根性のなさに弱音をはかざるを得ないのは残念ですが、 これからも、日頃の不思議の観察と思考を楽しみながら、 新しい課題へチャレンジし、 できればセンサの開発につなげてゆきたいと思っているところです。
Vol.3 No.1
2011年01月12日号
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