東京工業大学 特任教授

中村 昌允

1968年 東京大学工学部工業化学科を卒業し、ライオン油脂株...もっと見る 1968年 東京大学工学部工業化学科を卒業し、ライオン油脂株式会社(現ライオン株式会社)に入社し、洗剤の製造プロセスの開発研究に従事し、無リン洗剤や小型化洗剤を開発・工業化した。また、パーム油から天然カロテンを抽出する技術を開発・工業化した。

1991年 新規界面活性剤(MES)の製造プロセスを工業化したが、稼働開始3ヶ月後に爆発事故が起き、2名の方が亡くなられた。事故はメタノール蒸留塔の運転停止過程で有機過酸化物が高濃度に濃縮したことによって起きた。自らの技術力のなさと安全知識のなさを痛感し、以後、多くの事故における技術者の判断と行動、並びに事故の根本原因とその是正策について研究してきた。

2005年 東京農工大学大学院技術経営研究科技術リスクマネジメント専攻教授
2008年 東京工業大学客員教授を兼務
2016年 東京工業大学 環境・社会理工学院イノベーション科学系技術経営専門職学位課程 特任教授

主な資格 博士(工学)、技術士(化学部門)、労働安全コンサルタント(化学部門)

主な著書
・事故から学ぶ技術者倫理  工業調査会(2005年)
・技術者倫理とリスクマネジメント  オーム社(2012年)
・製造現場の事故を防ぐ安全工学の考え方と実践  オーム社(2013年)

 映画「Fukushima 50」が3月6日に封切られた。コロナの影響で一時上映が中止されたが、7月から再度上映され大ヒットした。

 この映画は2011年3月11日に起きたマグニチュード9.0、最大震度7という、日本の観測史上最大の地震となった東日本大震災時の福島第一原発事故を描いたもので、原作は門田隆将氏の「死の淵を見た男」(1)である。

福島第一原子力発電所(第一原発)は地震後、大津波に襲われ、非常用電源が破壊された。そのために、すべての計器の電源が失われ、電動弁も動かず、真っ暗闇の中で原子炉の冷却作業に苦闘する作業者たちの姿が描かれている。
主人公は、現場の最前線の中央制御室で奮闘する当直長の伊沢で佐藤浩市が演じており、免振重要棟で現場に指示を出し、一方では東電本店や官邸からの指示の中で苦闘するリーダー吉田昌郎所長を渡辺謙が演じている。

 映画のストーリーは原作に忠実につくられており、原発政策の是非や官邸側からの描写は描かれておらず、徹底して「現場を見つめる視点」となっている。
第一原発に残った地元福島出身の名もなき作業員たちは、世界のメディアから “Fukushima 50”(フクシマ フィフティ)と呼ばれ賞賛された。死を覚悟して発電所内に残った作業員たちが「どんな思いで現場への突入を決断したか」、その時、一人一人が残された家族への思いをはせ、それでも「自分が突入しなければ最悪の事態になる。何としてもその事態は避けねばならない」という強い使命感のもとに行動している姿が描かれている。
技術者には「緊急事態に陥った時、どのように判断し、行動するか」という観点で、経営者には「組織のあり方やリーダーの指導力」という観点で、一般の方には「現場で働く技術者たちがどの様な思いで仕事をしているか」、「技術者の性(サガ)とはどんなものか」という観点で、是非、鑑賞していただきたい映画である。

 一人の人間が、このような巨大事故を経験することは滅多にない。
安全に携わる者は、この事故を自社とは関係のない原子力関係の事故として捉えるのではなく、「そこで問題となった安全管理上の課題が自社にはないか」という視点でチェックし、自社の安全管理に活かすことが求められる。
それが、この事故の収拾に尽くされた多くの方々の労苦に報いることで、その観点で、事故から学ぶ安全管理上の課題を述べてみたい。

 安全管理上の課題を下記の5点について述べる。

  1. 緊急事態発生時における現場と本社との関係
  2. 巨大事故に対する備え(どこまでの津波対策を実施するか)
  3. 停電対策
  4. IC(緊急冷却設備)
  5. ベント(原子炉内圧の外部への放出)

福島原発事故の概要

 最初に、原発事故の推移について振り返ってみる。

 2011年3月11日午後2時46分に、宮城県の牡鹿半島東南東約130キロの三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。
第一原発では1・2・3号機が運転中で、4・5・6号機は定期検査中だった。1・2・3号機の各原子炉は地震で自動停止した。地震による停電で外部電源を失ったが、非常用ディーゼル発電機が起動し、津波が来なければ停止操作は無事に完了したものと考えられる。

 地震の約50分後、14~15mの津波が第一原発を襲い冠水した。地下に設置されていた非常用ディーゼル発電機が海水に浸かって機能を喪失し、さらに電気設備、ポンプ、燃料タンク、非常用バッテリーなど多数の設備が損傷し、全電源喪失に陥った。核燃料は運転停止後も膨大な崩壊熱を発するため、注水し続けなければ原子炉内が空焚きとなり、核燃料が自らの熱で溶け出す。
停電のためポンプが稼働できなくなり、原子炉内部や核燃料プールへの注水が不可能となったために核燃料の冷却ができなくなった。1・2・3号機ともに、核燃料収納被覆管の溶融によって核燃料ペレットが原子炉圧力容器(圧力容器)の底に落ちる炉心溶融(メルトダウン)が起きた。
メルトダウンの影響で水素が大量発生し、原子炉建屋、タービン建屋各内部に水素ガスが充満し、爆発を起こして原子炉建屋、タービン建屋および周辺施設が大破した。複数の原子炉(1・2・3号機)が連鎖的に炉心溶融、複数の原子炉建屋(1・3・4号機)のオペレーションフロアで水素爆発が発生し、大量に放射性物質を放出するという大規模な原発事故となった。

安全管理上の課題

緊急事態発生時における現場と本社との関係

 津波の襲来によって大混乱となった現場で困ったことは、すべての計器の電源が失われたことである。作業員は現場のプラントがどのような状況にあるかが分からないまま、真っ暗闇な建屋の中に突入した。
一方、異常事態の発生に、東電本店ならびに官邸からは、現場に、矢継ぎ早に情報収集のための情報提供を要求する。菅首相は、東電から情報が上がってこないことに苛立ち、翌朝、現地にヘリコプターで乗り込む。首相が来るということは、そのための応対が必要になり、多くの作業が中断されることになった。また、本店や官邸からの頻繁な問い合わせや指示は現場を混乱させ、事故収拾を遅らせた。これが国会事故調の調査報告書で指摘された「官邸の過剰介入」である。

 現場の状況は、現場でなければ状況を的確に判断できない。吉田所長はしばしば現場の実務を知らないものが、勝手な指示を出すと怒っている。
改めて感じることは、緊急事態における判断・指揮は現場に全権を委ねることの重要性である。そのためには、平常時の段階で本社と現場との権限委譲と交信に関するルールを決めておく必要があった。

 対象的な事例が、震災時に三陸海岸を走るJR東日本の列車が津波によって流されたにもかかわらず死亡者が出なかったことである。JR東日本安全担当執行役員であった西野史尚氏(現副社長)は、「これは本社からの指示ではなく、現場の指令と車掌との自発的判断と行動の成果である。緊急事態発生時には、『空振りしてでも良い』と指示してあった。そして、本社・対策本部は、要員・物資の支援と行政との対応がメインで、それしかできない」と語っている。

教訓

  1. 緊急事態発生時に、トップは包括的な指示は出せるが、的確に判断できるのは、現場である
  2. 緊急事態においては、安全に絡む判断等、技術者がすべき決断を、現場に委ねることを、平常時からルール化しておくことが必要である

巨大事故に対する備え(どこまでの津波対策を実施するか)

 事故の直接原因は、津波による電源の喪失である。映画では描かれなかったが、吉田所長は、福島第一原発所長に就任する前は東電の設備管理部長であった。吉田所長は就任直後に起きた中越沖地震で新たに活断層が問題になったことを受けて、2008年に福島県沖に過去最大級の津波の波源があるとすれば、15.7mの高さの津波が起き得ることを独自に試算している。
当時の政府見解は「津波高さは土木学会が算定した5.7mで、福島県沖には津波の波源がない」であった。しかし、実際には巨大津波が起きた。

 余談であるが、最近起きている球磨川、最上川などの洪水を見ていると、これまでこの様な大災害がないからといって、そんな災害は起きないと考えることは成り立たない。

 事故後、東電は独自に津波の高さを試算しながら、防潮堤を嵩上げしなかったとしてリスク管理責任を問われている。リスク管理として学ぶことは、福島第二原発、女川原発、東海第二は、いずれも想定を超える津波に襲われたが、第一原発のみが電源を喪失し致命的被害を被ったことである。
「津波対策として、想定高さを超える防潮堤を築くことしかないと考えるのは間違いで、過酷事故をギリギリにでも防ぐためにはどうするか」を考え、対策を講じることの重要性である。

 図1は畑村洋太郎先生の著作(2)からの引用である。

図1 津波に対する安全対策のコストと許容される事故の過酷度(2)

 リスク情報は、①対策を実施しなければ危ないレッドゾーン、②このままでも許容できる許容ゾーン、③その中間にグレイゾーンの3段階に区分できる。グレイゾーンは判断を誤れば、大きな被害に遭う。この不確実な状況のリスクをどうするか、どのように意思決定するかが現代社会の難問である。

教訓

  1. 致命的被害が予測される場合は、たとえ、発生確率が低くとも対策を講じる
  2. 最悪事態を避けるためにという観点なら、低コストの対策がある

停電対策

 この映画は、津波が襲来し地震で交流電源がすべて失われたところから始まる。停電のためにすべての計器が動かなくなり、プラントの状態が把握できなくなった。真っ暗な中、懐中電灯を頼りにいつ津波が再度襲ってくるかわからない不安の中で、現場に立ち向かうことは大変な恐怖であったと思われる。

 第一原発の非常用電源対策は何重にも備えていたが、全て使用不能になった。

  1. 地震の1時間後には、すべての電源が止まった。

    ① 変電所からの送電が地震で破壊された。

    ② 非常用電源/配電盤/海水ポンプ等が、津波で破壊された。

    ③ 緊急冷却装置(非常用復水器)が、電源喪失のため制御不能になった。

  2. 非常用ディーゼル発電機が構内の同じ場所にあった。
    設備は二重化されていたが、同じ場所に設置されたため機能喪失。
  3. 非常用発電機バックアップ用の移動式ディーゼル発電機が使えなった。
  4. 非常用バッテリーが8時間分しかなかった。

 この背景には、第一原発の敷地の高さが海抜10mであっため、まさか、それより高い津波はこないという思い込みがあった。電源関係の設備が水没して使用不能になるとは思っていなかったために、その備えがしてなかった。

教訓

  1. 非常事態においても、最低限、計装関係の非常用電源を確保する
  2. 電源喪失時の冷却機能維持の重要性
  3. 非常用バッテリーの持続時間の見直し

非常用復水器(IC:Isolation Condenser)作動状況の誤認

 ICは、原子炉内の蒸気を格納容器外のプール内の細管へ導いて冷却し、再び原子炉内へ戻して注水する原子炉冷却装置で、ポンプなどの動力を必要とせず自然循環で冷却できるので、電源喪失時の安全対策上の重要設備である。

 地震発生後、ICは自動的に起動した。しかし、電源喪失のために、中央制御室の制御盤の表示が消えて、バルブの開閉を示すランプが消えてしまい、ICが稼働しているかどうか判らなくなった。対策本部では原子炉内の水位が保たれているので、ICが作動しているものと誤認されていた。
吉田所長は政府事故調からのインタビューに対して、“私はそういうICを使った経験もないし、私自体は,ICそのもののコントロールの仕方だとか、そういうものはほとんど分かりません。―中略― 質問者「交流電源喪失時というか、喪失直後でもいいんですけれども,その頃はICが動いていると思っていたのですか」吉田所長は「はい」と回答している。そして「今にして思うと水位計をある程度信用していたのが間違い。水位計を信用しすぎたのが大反省です。」”と述べている。(3)

 ポイントは「なぜ、ICが稼働しているかどうか分からなかったか」である。

 第一原発の事故時の運転員は、ICが稼働すれば、どのような音を出し大量の蒸気が放出されることを知らなかった。
NHKスペシャル「福島第一原発7つの謎」(4)から該当箇所を引用する。
“吉田所長は1971年に福島第一原発1号機が稼働してからICが実際に動いたのは、今回が初めてだと証言している。1号機は運転開始直後を除いて40年間、ICのような非常用の冷却装置を使う事故は起きていなかった。さらに、ICを試験的に動かすことも試運転の期間に行われた程度で、その後、行われていなかった。すなわち、ICは40年間一度も動いていなかったのである。その理由は、ICを稼働すれば大きな音が出るので、住民の了解が得られないと考えて、稼働テストを行っていなかった。”
緊急事態に備えて、安全対策設備を定期的に稼働させ、安全性を確認することの重要性を住民に説明し、了解を得ておく必要があった。
これは、原子力分野に限られることではなく、多くのプラントに共通する課題である。仮に事故が起きれば、どのような安全対策が講じてあり、どのような状態になるかを住民に説明しておく必要がある。

教訓

  1. 安全上重要な設備や機器は、定期的に稼働テストし、運転員を教育・訓練することが必要である
  2. 工場やプラントの抱えているリスクを、地域住民に説明し、一緒に対策を考えるリスクコミュニケーションが重要である

1号機ベント操作の遅れ

 ベントは、原子炉内の圧力が急激に上昇した際に、格納容器の破壊を防ぐために内部の蒸気を外部に逃がすことである。
映画では,ベントを開放するために、作業者が暗闇の中で苦闘する姿が描かれている。原子炉の状態が普通ではなく放射線濃度が上がってきている。その中で、「誰が原子炉建屋に突入し、ベントを行なうか」の緊迫したやりとりが行なわれた。いわば「死」を覚悟した「決死隊」の人選である。
そんな状況下で、進んで原子炉建屋に突入していった技術者がいた。

 ベント作業が手こずった技術的原因は、一つ目は長時間の全電源喪失を想定した対応マニュアルがなかったことである。二つ目は電源喪失時に手動での操作ができるように設計されていなかったことである。
米国では、格納容器の設計圧力に達する前にベントを開始することが要求されている。日本では、放射性物質の放出を避けるために、できるだけベントを遅らせ、設備上も格納容器の最高圧力に達するまで破裂しないラプチャーディスクが設置されている。ラプチャーディスクはベントの障害になりえるので米国では廃止されている。

 ベントは、緊急時に格納容器の破壊を防ぐための最後の手段である。その基本思想が米国と異なっていることに、安全管理の立場から考えさせられる。ベントは住民避難が完了した9時4分に開始され、10時17分に完了した。

 民間事故調報告書(6)に記載されたベント実施に関する推移を表1に示す。

表1 ベント実施に関する推移(6)

教訓

  1. 安全装置は、電源喪失時であっても、操作可能にしておくこと
  2. 設備は「リスクゼロ」ではない
    リスクゼロでない以上、どのような安全対策が講じてあるかを、地元に説明しておくリスクコミュニケーションが重要である

まとめ

 科学技術は、多くの先達の失敗の上に、今日がある。
他社の事故から、自社の安全に活かせる教訓を、いかに掴み取るかは安全担当者の力量にかかっている。福島原発事故は我が国で起きた最大級の事故である。この事故を原子力の事故としてみるのではなく、類似の事象が自社にもないかの視点で考える必要がある。
その意味では、リスクコミュニケーションの重要性を再認識させられる。

 

 
(1)門田隆将:「死の淵を見た男」、2012年(PHP研究所)
(2)畑村洋太郎、安部誠治、渕上正朗:「福島原発事故はなぜ起こったか 政府事故調核心解説」、P78(2013年)講談社
(3)日本再建イニシアティブ民間事故調報告書検証チーム:「吉田昌郎の遺言 吉田調書に見る福島原発危機」,p15-16,2015年(東洋出版株式会社)
(4)NHKスペシャル「メルトダウン取材班」『福島第一原発事故 7つの謎』 2015年(講談社)
(5)2017年5月31日「JXTGエネルギー株式会社 和歌山製油所火災事故報告書」
(6)福島原発事故独立検証委員会「福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書」,p75-p80,2012年(円水社)