元スタインウェイ・ジャパン株式会社 代表取締役社長

後藤 一宏

1961年東京生まれ。
1984年慶応義塾大学...もっと見る
1961年東京生まれ。
1984年慶応義塾大学法学部法律学科卒業、株式会社服部セイコー(現セイコーホールディングス)入社。
2008年1月、Steinway & Sons 100% 出資の日本法人、スタインウェイ・ジャパン株式会社 代表取締役社長就任。
2019年2月、代表取締役社長退任、顧問に就任。6月 スタインウェイ・ジャパン株式会社 顧問退任。

 1977年よりファゴットを始め、これまでに竹田雄彦氏などに師事し、高校・大学を通じてオーケストラ活動に没頭。学生時代には、ザルツブルク祝祭大劇場、NHKホール、東京文化会館などでも演奏し、NHK「音楽の広場」では番組にも出演した。
 特筆すべきは、1983年12月4日 東京文化会館大ホールにて故山田一雄指揮で、ベートーベンの交響曲第九番を
上皇陛下(当時皇太子殿下)ご夫妻のご臨席のもと演奏したこと。
 その後、転勤、子育てなどでオーケストラ活動は中断したが、ファゴットのレッスンは継続し、2002年には約13年ぶりにオーケストラに復帰。それまでの海外駐在経験とオーケストラ活動が認められ、ヘッドハンティングにてスタインウェイへ転職した。
 その後も、演奏活動は精力的に続けていて、これまでに、故山田一雄、尾高忠明、黒岩英臣、松尾葉子、小泉和裕、大山平一郎、山田和樹など錚々たる指揮者のもとでの演奏経験がある。

 古典調律の詳しい説明は専門書に譲りますが、西洋音楽における鍵盤楽器の調律の難しさは、和音の美しさと、転調の自由さ(音楽の複雑化)のいずれかを取るか、という二律背反する命題に対し、どのように解決・妥協するかという点に絞られます。

西洋音楽における鍵盤楽器の調律の難しさ

 非常に乱暴な言い方をしますと、西洋音楽の基本的な骨格は、ハ長調(C Dur、C major)の場合、段落の最後に和声(ハーモニー)の終止形として多くは、C(ドミソ)-G7(ソシレファ)-C(ドミソ)となります。*1 いわゆる起立、礼、直れ!です。もっとも大事な和音は、ドミソ(主和音)です。各音程は、ド-ミが長三度(4半音)、ミ-ソが短三度(3半音)、ド-ソが完全五度(7半音)です。イ長調に置き換えると、ラ-ド#-ミとなります。これを美しく響く周波数比で表すと、ラ(1):ド#(5/4):ミ(3/2)となります。周波数では、440:550:660です。見るからに美しくハモりそうです。これを純正律と呼びますが、この音律ではメロディがギクシャクし、転調も不自由になります。

 転調についての制約を無くすためには、各半音の音程を揃える必要があります。すなわち各半音の音程を\(\sqrt[12]{2}\)とする厳格な平均律です。ところが厳格な平均律で、上述のラ-ド#-ミの音程を周波数で確認すると、440:554:659となります。いかにも響きが悪そうです。ラ=440hzを基準にミを見ると純正律の660hzに対し、厳格な平均律が659hzです。この1hzの差は一秒間に1回の「うなり」となりますが、流れている音楽の中で聴きとれる人は多くないと思います。しかし、ミは厳格な平均律と純正律では4hzの差になり、一秒間に4回の「うなり」となります。この「うなり」があるかないかは誰の耳にも感じられる差となります。高名なピアニストの中には「私は電子ピアノでは演奏しない」、または「指定した調律師が準備したピアノしか弾かない」とかおっしゃる方もいます。実はこれには理由があります。
 非常に耳の良いピアニストは、演奏中にピアノの音程やピッチを「変えて」演奏しています。実際に演奏中の一つ一つの音のピッチを細かく調整しながら演奏しているのかどうか科学的に証明することは難しいと思いますが、少なくとも聴き手には調整しながら演奏しているように聴こえます。西洋音楽、中でも古典音楽の終わりは多くの場合、起立、礼、直れ!になっていいます。この直れ!という主和音(トニカ)の第三音を少し低く聴こえるように演奏しています。このテクニックをピアニストは「音程を作る」と言いますが、ピアノの音程はいったん調律をしてしまえば、バイオリンのように自由に変えることはできないはずです。ところが耳の良いピアニストは、演奏テクニックによって美しく響くように、あたかも440:554:659が440:550:660のように演奏することができます。一方電子ピアノは、演奏上のどんなテクニックをもってしてもこの440:554:659を変えることができません。これが人前で「電子ピアノ」を演奏しないというピアニストの言い分のひとつです。

ピアノ調律師の誕生

 バイオリンなどピアノ以外の多くの楽器は持ち歩きが可能で、基本的に自分の楽器(貸与された楽器も含む)で練習し、同じ楽器で演奏会も行います。ところがそんなことができるピアニストは、今日私の知る限り世界中で3人しかいません。ツィメルマン(Krystian Zimerman)、内田光子とYOSHIKIだけです。ほぼすべてのピアニストが自宅とは違う楽器で演奏会を行っています。そのため自宅のピアノを日ごろから調整しているピアノ調律師に演奏会も依頼する傾向にあります。
 鍵盤楽器の主役がチェンバロであった時代は、楽器は持ち運びもしていたのでしょうが、ピアノが発明され、大型化し、更に鉄のフレームが使われるようになるとほとんど持ち運びができなくなってしまいました。18世紀においては調律や簡単な修理、調整はピアニストがその場で行っていましたが、弦の数やその張力も増大してくるとピアニストが自分で調整や調律をすることも難しくなってしまいました。現在のスタインウェイのコンサートグランドピアノD-274には、243本もの弦があり、その張力の総和も2トンを超えています。
 そこでピアノ調律師という職業が18世紀中頃に出現します。それでもピアノ調律師という職業が一般化したのはやはりピアノが持ち運べなくなり、また普及をし始めた19世紀半ばごろであったと考えられます。では調律師、特に演奏会場で働くコンサートチューナーは、一体どんなことをしているのでしょう。ひとことで言えば、ピアニストが様々なテクニックを駆使して音楽がより自然に聴こえるように演奏するための準備をします。もうすこし詳しく分けてみると、ピアノのメカを整える=整調(Regulation)、音色・音質などを整える=整音(Voicing)、音律を整える調律(Tuning)となります。すべて「均一に整える」作業です。
 この場合の「均一」は、物理的というよりは感覚的にと言うことになります。しばしば物理的均一が必ずしも感覚的に均一にはならないことがあります。そのため、日ごろから付き合いのある調律師に依頼する傾向があります。

整調(Regulation)

 例えば、鍵盤と打弦をするハンマーの位置関係は、黒鍵と白鍵ではテコで言う力点と支点の距離が違います。更に指が触れる鍵盤の上面の高さが違います。これを感覚的に均一になるように調整します。鍵盤の左端から右端まで最低音から最高音まで鍵盤の重さ(鍵盤を下げるのに必要な力の強さと、戻す力の強さ)が物理的に同じ数字では、演奏者は均一とは感じないはずです。鍵盤を押してから発音するまでの計測不能なほど短い時間も、絶対的な秒数ではなく感覚的に揃える必要があります。こういった調整を「整調」作業と呼びます。

調律(Tuning)

 調律師はTunerですから、調律がもっとも重要な作業になります。物理的に均一に揃えるのであれば、\(\sqrt[12]{2}\)で合わせればよいので、現代ではチューニングメーターを使って最低音から順番に合わせていく方法もあります。しかし多くのコンサートチューナーはこれを使っていません。コンサートチューナーは全員絶対音感があるのかというと、そうでもないらしいのですが…。実はピタゴラス音律を修正して調律を行っています。ピタゴラス音律には誤差があるということは前述の通りです。ですからそのままというわけではありません。作業はまず、「割り振り」という作業から始まります。人の耳にはオクターブ、完全五度、完全四度の音程感が備わっているのでこれを利用します。まずA4を440hz (日本では現在は442hzが一般的)に音叉かチューナーで合わせます。ここから先はいくつかの流儀によって順番が異なりますが、ある流儀ではA4からオクターブ下のA3を取ります。完全四度上のD4を取ります。人間の耳は純正律の完全四度ですが、平均律の完全四度は純正律に対し音程が広いので少しだけ広げます。純正調だと「うなり」がないので大体1秒に1回の「うなり」が聴こえるように故意にずらします。次にD4から完全五度下のG3、そして順番にG3-C4、C4-F3、F3-B♭3(A#3)、B♭3 (A#3)-E♭4(D#4)、E♭4(D#4)-A♭3(G#3)、G#3-C#4、C#4-F#3、F#3-B3、B3-E4、E4-A4と12回作業を繰り返しF3-E4までのオクターブの半音階を作ります。純正調の完全四度は平均律より僅かに狭く、純正調の完全五度は平均律より僅かに広いので、調律師はその都度決まった回数の「うなり」を入れますが、このあたりの塩梅は調律師によって微妙に違います。

 また、ここで出来上がった12個の半音をオクターブ上、オクターブ下に広げて88鍵を調律するのですが、実はオクターブも幅があります。440hzのオクターブ上は880hz、下は220hzなのですが、人間の耳には許容範囲というものがあります。その差は1hzにも満たないものですが、広めと狭めのオクターブがあります。中央付近で作った12個の半音を両側に広げていくので両端では最終的には大分異なったピッチになります。それらの誤差は半音の百分の2-3程度です。人の聴覚は面白いもので、ある時はとても精密で、ある時はとてもいい加減だとも言えます。

整音(Voicing)

 音質についてもあたかもグラデーションのように低音域から高音域まで連続しているように感覚的に均一にします。これを「整音」作業と呼びます。主にフェルトで包まれた、弦を打つハンマーヘッドの形や硬さを調整しますが、他の方法もあります。例えば、ハンマーが弦を打つ位置をわずかに前後にずらすことによっても音質は変わります。これは整調作業に含まれます。また、スタインウェイのコンサートグランドピアノD-274の場合、88鍵の内訳は、一音につき弦一本が8鍵、二本が5鍵、三本が75鍵あります。低音の8鍵以外は一音につき複数の弦が張ってありますが、これらの複数の弦の調律を機械では測定できない程度にずらすことによっても音質や音色を変えることができます。これは調律作業に含まれます。このように整音作業は、整調・調律作業とも密接に関係していて非常に複雑です。整音は、コンサートピアニストがもっとも「気にする」調整作業なので調律師も神経を使います。しかも数値として測定できない「感覚の世界」のため、「気心」が重要になります。

 こうして準備されたピアノで演奏会が行われるのですが、調律師の作業は、あくまでもピアニストが「均一に揃っている」と「感じるように」調整することです。ピアニストが常になるべく同じ調律師を指名するのは、この均一に揃っているという感覚、「気心」を共有できる人と仕事をしたいからにほかなりません。こうして耳の良いピアニストは演奏会で本来和声的には不完全な「平均律」に調律したピアノをあたかも純正律で調律したかの如く演奏することがあります。ピアニストが音程を作る瞬間です。

ピアノを演奏するのに遅すぎるということはない

 さて、このピアノという楽器は、ピアノ単独でのリサイタル形式の音楽会だけでなく、ほとんどの楽器のリサイタルに「伴奏」という形で参加する、なくてはならない共演者です。また、室内楽や大きなオーケストラでもその一員としてピアノは参加することができます。更にピアノは同時にたくさんの音を出すことができるので、オーケストラ作品を一人で演奏することも可能です。これは前述のように19世紀にオーディオ代わりに使われたこともありました。
 そのようなピアノですが、演奏法の習得には時間と忍耐が必要です。自動車の右ペダルは、教習所に通い始めればすぐに踏むことができますが、ピアノの右ペダルを踏めるようになるのには一年位必要です。立派な演奏家になるためには一般に10年以上の歳月が必要です。しかし、ひとりで楽しむのにはそれほど時間はかからないと思います。毎日練習できればひと月ほどで易しい曲は弾けるようになります。ピアノが弾けるようになることはそれ自体が大きな喜びでありますが、練習をすることで多くの副次的なベネフィットを享受できることも科学的に証明されています。
 お子様の場合、*2 ピアノの練習により、認知能力や知的能力が高まります。また、ピアノの練習を通じて、記憶力、特に言語記憶が向上し、集中力、粘り強さ、勤勉さ、創造性といった望ましい気質が育まれることが判明しています。お子様以外の方も含めて、ピアノを演奏することによって心の安らぎが得られることも証明されていて、現代に多い「心の病」の治療にも採用されています。更に、壮年期を過ぎた方々にとっては、脳や運動機能の老化防止に役立つことも証明されています。世界的ピアニストを目指すには少し遅れをとってしまっていても、ピアノを習ったり、練習することは、きっと人生を豊かにすることでしょう。ピアノを始めることに遅すぎるということはないと思います。

 もちろん楽器を演奏したり、歌を歌わなくても、音楽を楽しむことはできます。音楽を聴くこと自体に「癒し」の効果があることは古くから証明されています。昨今の疫病が或る程度収束したのちには、十分な対策をした上で、是非コンサート会場にお越しいただければと思います。何しろクラシックの音楽会は滅多なことでは満席になりませんし、大声を上げるどころか咳払い一つするのも憚れる会場ですから。

【参考文献】
『楽器の科学』 橋本 尚 著  講談社刊
『音律と音階の科学』 小方 厚 著  講談社刊
『音楽の基礎』 芥川 也寸志 著  岩波書店刊
『ピアノの誕生』 西原 稔 著  講談社刊
『総合和声』 島岡 譲、野田 暉行、尾高 惇忠、川井 學、佐藤 眞、永富 正之、南 弘明、浦田 健次郎、野平 一郎 著 音楽之友社刊

*1 終止形には、この完全終止のほかに偽終止、半終止、アーメン終止などがあります。
*2 スタインウェイ・ジャパン社に了承いただいた上で、ホームページにある記事より、その一部を引用させて頂きました。
 ( ピアノを演奏することのメリット

協力 : スタインウェイ・ジャパン株式会社
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