東北大学名誉教授 公益財団法人 電磁材料研究所 相談役・グランドフェロー

増本 健

1932年生まれ。東北大学大学院工学研究科金属工学専攻修了。...もっと見る 1932年生まれ。東北大学大学院工学研究科金属工学専攻修了。東北大学金属材料研究所教授、同所長等を歴任。
退官後、財団法人電気磁気材料研究所所長、同理事長を勤め、現在は公益財団法人電磁材料研究所相談役・グランドフェロー、東北大学名誉教授。

アモルファス金属研究の第一人者で、準結晶、ナノ結晶などの研究にも従事。

そもそも私が学者の道を歩み出す切掛けとなったのは、「鉄の神様」といわれた本多光太郎先生への幼い頃からの憧れからであった。振り返ると、私の人生の大部分は、本多先生が残された大道に沿って過ごしてきたといっても過言ではない。

常に新しいことへ挑戦せよ

近頃は、著名な先生に憧れて大学を選ぶ学生はほとんどいないと聞いている。しかし、私の場合は、父親(増本量)の恩師である本多先生の影響が極めて大きかったのである。第二次大戦の真っ直中であった小学生の時、担任の先生から “将来何になりたいか” の作文を書かされたことがあった。当時の生徒のほとんどは “陸軍大将や海軍大将になりたい” とか書いたそうだが、私だけは “学者になりたい” と書いたことを覚えている。戦後になって担任の先生から “君はなぜ学者になりたかったのか” と聞かれた時、私は “軍人よりも学者の方が尊敬されるから” と答えたそうである。このような幼い頃の影響からか、高校卒業後何の躊躇いもなく東北大学工学部に入学(昭和 26 年)、金属工学科へ進み、続いて本多先生が創立(大正 5 年)された金属材料研究所で大学院時代(昭和 30~35 年)を過ごした。そして、昭和 35 年 4 月に念願であった金属材料研究所の助手になることができた。

その当時の研究所は、金属研究のメッカとして、わが国ばかりでなく世界的に著名な研究所であり、所員は常に優れた研究成果を挙げなければならないという厳しい競争の環境下にあった。このため、助手と助教授の時代は、伝統と言う目に見えぬ重圧と厳しい権威ある先生達に囲まれ、また、何かと言えば常に父親と比較されると言う大きなプレッシャーを常に感じる息苦しい時代であった。

この苦しい試練の時代が過ぎ、昭和 46 年鉄鋼材料部門の担当教授になった時に、厳しい問題が待ち受けていた。それは、研究室として何を目指して研究するかということであった。その当時の昭和 40 年代は、わが国が世界一の粗鋼生産国となり、「鉄は国家なり」と言われた鉄鋼業全盛の時代であった。担当した研究部門の初代教授は特殊鋼の権威である村上武次郎先生(文化勲章)であり、次の2代目は鉄鋼材料の権威である今井勇之進先生(文化功労者)であった。この栄光ある研究室を継ぐことの責任は極めて重大であった。しばらく悩んだ末に、私は敢えて鉄鋼材料の研究を捨てる決心したのである。その理由は、当時の鉄鋼企業がこぞって巨大な基礎研究所や中央研究所を新設し、総合的鉄鋼研究を開始しており、大学のような小規模な研究室がこれら大企業の巨大研究所と争って勝つことは不可能である、と考えたからである。そして、16 年間続けた鉄鋼材料研究を捨て、独自の新しい学問分野を切り拓く研究へ挑戦したのである。この思い切った決断ができたのは、本多先生の “常に新しいことへ挑戦せよ” と言う教訓からであった。

「アモルファス金属」との出会い

教授に就任して早々、新しい自分の研究として選んだテーマは、助教授時代から秘かに暖めていた「アモルファス金属の研究」であった。そもそも私がこのテーマと出会ったのは、昭和 43 年の助教授の時である。研究所の図書館で新刊雑誌を読んでいた時、結晶ではない金属が存在するらしいというカルフォルニア工科大学のポール・デュエイ教授が書いたレビュー論文が目に止まった。これまで “金属は結晶である” と信じてきた私にとって、これは極めて大きなショックであり、強く興味を覚えた。この報告の中では、「奇妙な金属」として紹介されており、この材料の性質についての詳細は書かれていなかった。そこで、早速調べて見たいと教授に願い出たが、まだ助教授の身分である私が勝手にテーマを選ぶことは許されなかった。この望みが叶えられたのは、昭和 44 年 9 月から 1 年間、客員研究員としてペンシルベニア大学へ招かれた時であった。幸いにもアメリカでは研究の自由が尊重され、個人の責任でテーマを選ぶことができた。そこで、ペンシルベニア大学に到着して直ぐに、アモルファス金属テープを作製する装置を自作することから始め、そして実際に試料が作製できたのは、渡米してから僅か1ヶ月後のことであった。直ちに、このアモルファス金属の強さを測定すると、驚異的な強さと共に大きな変形能があることを見出した。そして、昭和 45 年の国際会議で「アモルファス金属の強度と変形」というテーマで発表した。この発表は「新素材」として世界で脚光を浴びる切掛けとなったのである。

幸なことに、帰国した翌年の昭和 46 年、鉄鋼材料研究部門の担当教授に昇任することができ、このアモルファス金属の解明へ挑戦するチャンスが得られた。最初は一人で研究を始めたが、数年後には所内に興味を持つ研究者が次々と現れ、大きな研究グループが自然発生的に結成された。所内の新進気鋭の若い研究者達が集まって研究会を毎週のように開催し、活発な議論を戦わせた。その結果、アモルファス金属の三大特性である高強靭性、超耐食性、極軟磁性を明らかにすることができたのである。その他、原子構造、放射線損傷、触媒、インバー・エリンバー効果などの広範な物性についても広く研究が進められ、次々と世界を驚かすユニークな物性を発表した。その結果、研究所は「アモルファス金属のメッカ」として世界に広く認知されたのである。このような研究室の枠を越えて自由に研究グループが結成できたのは、やはり本多先生以来の伝統があったからと言える。

アモルファス金属からナノ構造金属へ

そもそもアモルファス金属の研究を始めた最初は、単純な学問的興味に過ぎなかったが、研究途上で思いがけない国際紛争に巻き込まれるという事件に遭遇した。それは、アモルファス金属が将来有望な新素材として世界的に注目されたからであった。最初は日米間の特許紛争による ITC 裁判(昭和 57〜60 年)であり、続いて平成元年には日米間貿易摩擦による「スーパー301 条」の対象に取上げられるという事態が起こった。そして、この両国間紛争に巻き込まれ、証人として ITC 裁判に立たされる憂き目に会った。約 8 年間に及ぶ係争の結果、ITC 裁判は日本側が勝利したが、一方、貿易摩擦の国家間交渉により日本が譲歩することで決着させられてしまった。この結末は後まで大きな影響が及んだのである。

このアモルファス金属に関する日米間の競合は、私にとっては大変苦い思い出であるが、反面、開発した材料が国家間の係争の的となったということは、自分が如何にインパクトの大きい研究をしたかの証しである、と考えることにしている。そして、この事件を切掛けとして、昭和 60 年代からは、新しい材料の開発に重点を置き、高比強度アモルファス軽合金、ナノ結晶型軟磁性材料,安定準結晶合金、さらに最近では、金属ガラスやナノグラニュラー薄膜などの新材料の研究を発表し、材料科学分野の世界最強グループとして高い評価を受けている。

私の研究人生は、本多先生が残された素晴らしい研究環境と伝統の中で、自由な研究ができたからである。そして、自分の信じる道を努力によって一歩一歩進み続けることが大切であるという「今が大切」の教訓を守ってきた結果であると思っている。また、常に良く考え、そして常に努力するという「熟考而努力」は私の研究における大きな指針になっている。