防衛大学校 名誉教授

松下 修己

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当日は、日立製作所日立工場の設計者らとの打合せで、午後から日立工場の来客会議室に入りました。海に面した眺望のきれいな部屋で、建物自体が高台の上にあり、見通しは格別です。太平洋が眼前に広がり、海原の遠く水平線が見えます。会議前にいつも見とれる風景です。

尋常ではない地震

会議のテーマは、タービン振動の解析について。ミニカンファレンス風に各所から関係者に参集をお願いしていました。私は茨城県の笠間市から、遠くは神奈川県横須賀市の防衛大学からも参加。途中での出入りもあり、総勢10名くらいで会議がはじまりました。

会議ではタービンに関わる各種の振動応答解析の一例として、地震波に対する応答などを話題にしていました。例によって「耐震設計などは確立した技術」などと豪語しているとき、突如として3月11日14時46分に地震が発生しました。とにかく、大きくて長い尋常ではない地震が始まりました。白板が倒れないように押さえていましたが、耐えられず、頑丈な机の下に皆と隠れました。建物は揺れ、部屋はギシギシとうなりをあげ、 いつもの長さの比ではない(後から3分と聞きましたが)ことに事の重大さを予見しました。漸くたって揺れが少し治まったので、余震が続く中、外に出て指示に従い避難場所へ逃げました。

1ヶ月経った今でも、この原稿を執筆している最中、従来の比ではないほどの大きな余震が続いています。しかし、もうびっくりして外に逃げ出すような住民はいません。慣れって怖いですね。実際の地震波で台を動かして機械の揺れを評価する耐震実験や、振動台に載る体験学習などを経験していましたが、やはり不意に訪れる本物の地震の迫力にはかないませんでした。

初めての避難生活

被災した隣家。屋根、塀など半壊。

地震発生直後、我々は高台にある避難場所へ避難しました。そこでは観光バスが数台止まっていて、ラジオから大きな音で状況を報じていました。避難の折、眼下に現場の建屋が見えましたが、火の手がなかったのが幸いでした。避難訓練のように点呼や整列が手際よく行われるでもなく、皆で何となく事の推移を見守っていました。この間に困った事は、屋外トイレが無かった事です。

そのうちに「各自気をつけて帰宅」との指示が出て、16時頃にマイカーで会議の仲間を乗せ、帰路につきました。消防隊の解散指示が「的確で力強い声」だったことを覚えています。今でも、日立地区の鉄道や工場は復旧に呻吟しています。地震は宮城沖、福島沖、日立沖の3連発で、目の前の海で起こった地震の凄さを物語っています。

「帰宅指示」が出て、はじめは海岸線沿いに帰る予定でしたが、海の方に津波が見え、山側の方に方向を転じました。まだ少し明るかったのが幸いして海の怖さに気づきましたが、さもなければ、そのまま海沿いに津波の横を走っていたかもしれません。うろ覚えの細かい道などを通り、信号が働かない交差点を越え、迂回しながら橋を渡り、暗いなか日立から水戸方面を目指しました。とにかく「なんで?」というくらい多くの車が右往左往。長い行列に並んだ後に道路が寸断されたことを知り、再び迂回するなど四苦八苦の帰還でした。紆余曲折の運転の後、笠間の自宅に着いたのは深夜1時。この間に苦労したことは、空腹?違います。再び「トイレの問題」でした。

同乗の仲間に「あとは歩いて帰ったら?...」と言ったら、即座に車を取り上げられ彼らの家の方にさっさと走り去りました。この「押収された車」は、そのまま土浦を経由して南下し、翌日の夕刻まで横須賀へ走ったそうです。

自宅の小さな被災。散乱する書斎。

帰宅後は、家族・近隣の人との共同避難生活に合流。水道や電気が止まりましたが、水は近所の川にありました。食料は冷蔵庫の中の「日頃から不要な蓄え」が効いて助かりました。テレビなし、ラジオなし、インターネットなし、灯りなし、風呂なし、携帯不通、6時起床19時就寝、世の中と絶縁した簡素な生活でした。本棚から全ての本が落下し、食器棚半壊、仏壇転倒、物置き半壊などなどでしたので、毎日後片付けに明け暮れていました。結構、忙しく充実感はありました。

このとき、娘と孫2人が我が家に居候していて、一人は8ヶ月の赤ん坊でしたのでミルクのための清潔な水の確保が大変でした。町役場で水の配給があり、皆思い思いの容器を持って列に並びました。2Lの配給にバケツを持っている欲張りな人、一升瓶を持つ酒豪らしき人(私など)などがいました。配給水で濯ぐ訳にはいきませんでしたので、少し酒風味のミルクとなりましたが、孫は嬉しく飲んでいました。不自由で非衛生的な生活でしたので、これは危ないとばかりに娘婿が決死の思いで来訪、さっさと横浜の実家の方に引き取り、我々にとっては心配事が一つ減りました。

病院のテレビで知った原発事故

実は、3月14日から胃カメラ手術の入院が予定されていました。てっきり東京も被災しているので延期だろうと思い、電話で確認したところ、「こちらは通常業務、予定通り」とのこと。避難生活を一旦休止して、急遽、準備していた手荷物を持って東京へ。病院では水や電気が完備し、入院生活では食事ベッドの提供を受け、避難生活の後でしたので、まるで高級ホテル暮らしの様でした。

福島第1原発から約100Kmの当地

しかし、その後のニュースに戦慄しました。病院のテレビで初めて知った福島第1原発の事故の映像を見て愕然としました。機械は整然とした形をしていなくてはならない物です。吹っ飛んだ屋根、ズタズタの鉄骨構造、全てが機械工学面の異常です。その上に放射性物質の漏洩、放射熱反応など化学工学面の異常も加わり、奈落のような様相を呈しています。病院では事故対策の一挙手一投足を映すテレビに釘付けでした。

退院後の一時疎開を終え、今はふるさとの笠間市に帰っています。3月11日の地震にはじまり、津波に未曾有の被災、レベル7の原発事故と連なる一連の異常に怯えています。特に福島第1原発から約100kmの当地では、全世界のメディア同様に、燃料棒・格納容器に対する「止める、冷やす、閉じ込める」方策推移に一喜一憂です。関係者の努力と成功を祈ります。

原子力エネルギーから自然エネルギーへ

ドイツでは原発推進が国民投票で破れ、原子力エネルギーから自然エネルギーに開発の軸足を移しました。そのときの私の質問「WHY?」に対し、機械工学で著名なドイツのGash先生は、「年々技術者のレベルは下がり、原発技術は難しすぎるから、ドイツは撤退した。」と答えた。あの技術国のドイツでも、う~ん...たしかに。