株式会社IHI 技術開発本部 技監

小林 正生

長野県東御市出身
1977年3月 東京工業大学...もっと見る
長野県東御市出身
1977年3月 東京工業大学大学院修士課程修了
1977年4月 石川島播磨重工業(株)( 現 (株)IHI )入社
原子力開発室配属後、技術研究所 機械要素研究部へ移籍、回転機械の振動担当
1993年3月 東京工業大学博士(工学)
2003年4月 基盤研究所 部長
2005年4月 技術開発本部 技師長
2007年4月 技術開発本部 技監
現在に至る

専門は、機械振動、特に回転機械の振動、日本機械学会 機械力学・計測制御部門で振動工学データベース(v_BASE)研究会やロータダイナミックス研究会などに所属して活動中。

趣味は、音楽鑑賞、登山、油彩画(最近はあまり書いていません)

重工業の機械振動の研究部門に所属して、かれこれ 30 年以上が経過した。ここに籍をおいたのが元で業務として必然的に、いわゆる振動トラブルシューティングを多く担当することになった。

構造力学や材料関係の部門では、トラブルシューティングといっても物が壊れてしまった後の原因調査が多いが、機械振動の場合は現在進行形のトラブルがほとんどである。壊れそうだから早く調べてくれ、早く直してくれという案件が多く、つまり時間との闘いになる。他部門でのあまり時間に追われないトラブルシュートがうらやましかったのが事実である。急ぎと言っても振動原因を調査するのが目的なので、身ひとつで行っても意味が無い。計測屋数人とチームを組んで、現場計測用の計器類を段ボール数箱に梱包して現場に出向くわけである。うまく原因が分かって効果的な対策が取れればトラブルシューター冥利に尽きるが、そうすんなりとは解決させてはくれない。アカデミアとは無縁の、企業における機械振動屋としての実力が試される大変な仕事といえる。しかし専門性とは別の、幸か不幸か良く分からないが、いろんな種類の経験が得られる。

海水淡水化プラントにて

写真 1 プラントの遠景

最初の海外トラブルシュートは入社 3 年目頃だったと思う。某アラブの国に設置した海水淡水化プラントで、立形海水フィードポンプ(他社製)の振動が大きいことが問題で、現地調査するというものであった。数台のポンプがあり調査するために 3 週間近く滞在した。新川電機製の非接触振動計や加速度計などを用いたが、こうしたセンサ・ケーブル類はすべて海水に浸かるため、防海水対策を十分に行う必要があった。防海水対策用に使う接着材の溶剤および脱脂剤に、今となっては信じられない話であるが、アセトンの他に、指定劇物で肝障害や発がん性が指摘されている 4 塩化炭素が用いられていた。確かに脱脂剤としては非常に優れていたが、その匂いは非常に強力で思い出すと今でも窒息しそうになる。

このように苦労して準備したのであるが、振動の原因はすぐに判明した。数台のポンプは程度の差こそあれ、みな同じオイルホイップ(すべり軸受の油膜特性が原因となった不安定振動)で、片持ちはり形の 1 次モード(地上に露出している部分の振動より、地下の海水に浸かっている部分の振動が圧倒的に大きい)の振動が出ていた。ポンプにはゴム製のカットレスベアリングが使われていた。状況を報告後、振動対策は製作メーカで実施されたため、その後の詳細は実のところ不明である。うまく解決したのか心配であったが、結局、再度出張しないで済んだことから、それなりに問題は解決したと推測している。

こうした仕事とは別にいろんな経験をした。毎朝、宿泊先のホテルからマイクロバスで、真っ平らな砂漠の地平線にゆっくり上がる朝日を見ながら、現場サイトに通勤するのであるが、サイトの敷地境界は 2 重 3 重に鉄条網で覆われていて、正門入口には機関銃をもった数名の守衛兵がいた。片手に機関銃を持ちながら、空いているもう片方の手で、鞄の中をゴソゴソ調べるセキュリティチェックが入退場で毎回行われていた。このような経験はこれ以外幸いにして現在まで無い。隣国と戦争になったのはその時から 10 年も経たなかったことを考えると、当時の政情では当然のことだったと思う。

アラブの人々の国民性

写真 2 アラブの商店街

それにしてもアラブの人々の国民性には大分驚かされた。文字通りのカルチャーショックである。現在の海水淡水化は逆浸透膜形式のプラントが多いと思われるが、当時は海水を煮詰め蒸気を凝集して飲料水にするいわゆるフラッシュ式のプラントが多く設置されていた。石油がほぼタダで飲料水が百数十円/リットルと、ちょうど石油と水の値段が日本と逆の国だから成り立つプラントである。プラントでは、煮詰めた海水は塩分濃度が高くまた温度も高いのでパイプ等の腐食が問題となる。このプラントでもバルブが腐食して蒸気がいろんな場所で白く吹き出ていた。しかし、そのままに放置してあるらしく、まず修理をしようとしないのに驚かされた。また、工場の人間のほとんどは午後になると早々に家に帰ってしまうのにも驚いた。

これは現場の熱さ(毎日 40℃ を超える。と言っても今の日本では珍しくなくなった)のせいだけではないようだ。また定刻になると、やっている作業を放り出して、用意しておいたゴザを通路に敷いて、所定の方向に向かって礼拝を始めるといった状況である。

挨拶用語に “サラマレコン” という便利な言葉があった。おはよう、こんにちは、こんばんは、どれにも使える。機関銃を持った守衛に挨拶するのにもよく使った。初対面の人にももちろん大変有効で、これでなんとなく意志が通じるようになる。実際は、“アッ・サラーム アライクム” =「あなたがたの上に平安がありますように」ということらしいが、日本人には “サラマレコン” としか聞こえない。また、アラブ人と一緒に仕事をすると “インシャラー” という言葉をよく耳にする。これが「神(アラー)の思し召すままに」という神を賛美する言葉ということである。キリスト教でも同じような「すべて神の御心のままに」(ルカ福音書)があり神への絶対信仰を意味する言葉になっているが、内容についてはちょっと違う気がする。意図するところは「うまく行くも行かぬも すべて神次第」ということで、“Let it be、 ~どうにかなるさ~ ” ということに近いようだ。したがってこの言葉が出た後はスケジュール通りには物事が進まなくなると言われる。また、ラマダン(断食月)というのがある。ほぼ 1 ヶ月間、日の出から日の入までの間、飲食を絶つ(水を飲むのも禁止)宗教的試練である。私が滞在したころは幸いにしてこの期間には該当しなかったが、非イスラム教徒とてこの期間中は、公共の場においての喫煙行為は厳禁と現場の人たちに言われた。戒律が厳格で有名な隣国では、これを行った結果として国外追放が通例であり、それでもまだ良い方で、数年前には某日本メーカの技術者達がたむろして喫煙したのが原因で禁錮刑となり、挙句の果てにモスクを一つ作る約束をしてようやく釈放してもらったという大変なエピソードも現地の人から聞いた。

最後に

休日には車で砂漠ツアーをした。見慣れない砂漠特有の植物がところどころに植生していた。稼働中の石油掘削機も間近で見ることができた。しかし、どこまで行ってもずっと砂漠のままできりがなかった。また途中で、アラビアのロレンスのようないでたちの全身白布に包まった羊飼いと、のんびりとした羊の大きな群れによく出会った。この国の人々は、おそらく何千年も前からこのような生活をしていたのだろう、熱いのを除けば大変のどかで、平和そのもののように思えた。

写真 3 砂漠と羊の群れ

先進国がアラブで石油を探し当てたおかげで、アラブの国の人々の生活が様変わりするとともに、現在は石油の利権をめぐって部族や隣国どうしが争う、戦争の絶えない国々になってしまった。さらに最近の IS(Islamic State)になってくると、イスラム教についての知識がないのを差し引いても、存在そのものからして理解しがたい状況になっている。こうしたアラブイスラム圏へ自ら進んで旅行する機会はこれからもおそらく無いであろう。たいへん貴重な経験をさせていただいた。最後の結言として、これらアラブの人々に真の平和をと心から願わずにいられない。