社会リサーチ・サイエンスト、日本専門家活動協会理事 青山学院大学社会情報学部元客員教授

小畑 きいち

学歴:青山学院大学で経営学を学ぶ、東京電機大学大学院で都市工...もっと見る 学歴:青山学院大学で経営学を学ぶ、東京電機大学大学院で都市工学を学ぶ、
東京大学大学院で技術管理・MOT を学ぶ

職歴:米国系メーカーで、ソフト製品開発、コンサルタント、マーケティング、国際協働チームマネジメント、
カストマー・サポート統括、産学連携マネジメントを歴任

教育歴:工学院大学、浦和大学、東京大学先端研、早稲田大学(早稲田総研)、青山学院大学、東京電機大学などで非常勤、常勤、特任、客員など講師、研究員、教授などで従事

担当分野:システム工学、E-ビジネス、プロジェクトマネジメント、技術経営、社会情報、ユーザ・リサーチ、AI、空間計画(街づくり)、都市交通、都市社会、起業論など

過日、地域創生に関して3回にわたり執筆し、読者の皆様に内外事例の概要説明を行いましたが、今回は個別事例について紹介いたします。
今回は欧州最古の大学を有する都市、イタリアのボローニャについてその都市の歴史と都市再生経緯について説明いたします。コロナ禍で街歩きも旅もままならない状態が続いていますが、WEB上で街散歩・歴史など思いをめぐらしていただければと考えます。

ボローニャのあらましと成り立ち

ボローニャ(Bologna)はエミリア・ロマーニャ州の州都で、都市としての規模は約39万人の中規模都市だが、約90万人の都市圏を形成する。アペニン山脈とポー川の間に位置する都市で、イタリア北部の基礎自治体(コムーネ)であるボローニャは、古代ローマ帝国のボノニア(Bononia)に始まるとされ、ローマ帝国滅亡後、ランゴバルド王国に属し街道における軍事拠点として重要視された。

のちにフランク王国に征服され、カール大帝はローマ教皇にこの地域を領土として寄進した。以降都市として成長するが、中世12世紀ごろに神聖ローマ帝国皇帝と北イタリア統治権/都市自治権をめぐり、皇帝派(ギベリン派)と反皇帝派(ローマ教皇派:ゲルフ派)間で交戦が行われた際、反皇帝派としてロンバルディア同盟(20以上の都市同盟)に参加し、ボローニャ陣営は皇帝軍を悩まし続け勝利し自治を獲得することとなる。その後ミラノによる統治、教皇などの支配を受けて、さらに都市内部抗争により興廃を繰り返す間も、聖堂、修道院などの建造は続き、建築、絵画1)など文化的な振興は継続され、ルネサンス期を迎え今日の文芸都市の基礎を築いたとされる。

(注1)この時において、対立する貴族たちに斜塔の建築ブームが起き塔の高さを競った。ボローニャ市内に建てられ、現在も残る斜塔遺跡には高さ90mを超えるものもあり、観光名所となっている。

1088年にヨーロッパで最古とされる大学「ボローニャ大学」に、学生たちの主導により神学部が創立された。大学は時代と共に編成拡充され、17学部を有するイタリア有数の総合大学として現在に至る。ダンテ、ガリレオ、エラスムスなど多くの著名知識人を輩出し、ボローニャは「La Dotta(学問の街)」と称されている。ボローニャ大学の存在は大きく、毎年約2万人超の新学生の流入によってボローニャ市に活気と賑わいをもたらしており、自主・進取の気概をもたらしボローニャの市民意識に多大な影響を及ぼしている。また産業も盛んで水力による絹糸業から始まり、精密機械・包装機械産業など、さらに高度な技術を持つ中小の職人企業などが知識・技術を互いに持ちより、ボローニャと周辺一帯を産業集積地として形成し活気をもたらしている。周辺には高級車のフェラーリ、バイクのドゥカーティや自動包装のIMAなど有名企業も存在する。その産業の発展歴史の一端をボローニャ産業遺産博物館で見学確認することもできる。

現在ボローニャは、文化芸術と産業が併存するイタリア有数の観光・コンベンション都市となっている。2000年には文化推進街づくりが認められ「欧州文化首都」に選定された。また2006年からボローニャの重要な都市景観の一部であるポルティコ2)群によって構成される街区・景観が、ユネスコの世界遺産候補としてイタリアの候補暫定リストに入り、世界遺産選定を目指している。

(注2) ポルティコ:建物前面に柱列によって支えられる歩行回廊。柱列と建物壁によって囲まれた歩道と天井があるアーケード型構造建造物のこと。

ボローニャの退潮と再生

ボローニャは、1950年代に急激な工業化により南部などから人口流入が急増し、極端な住宅不足が発生した。中心市街地では人口過密による居住環境の悪化が進んだ。高所得者層は環境悪化を嫌って多くは郊外へと転出し、中心地は低所得者層住民が主となり、空き家も増え人口減少により空洞化が進んだ。古びた建物が並ぶ中心市街地は衰退傾向が顕著になった。このような状態に危機感を持ったボローニャ市は、中心市街地の再活性化計画の検討に入った。

そこで、都市改革主義など専門家の思想を取り入れ、中世・ルネサンス期の建築景観を活かし、スクラップ&ビルトによる従来型の再開発手法を採らず「外装は伝統様式を踏襲修景し、住空間は内装リフォームによって居住環境を改善して居住民に快適さを提供する」という方式を基本構想とした。

まず、街区基盤を活かした修景を実施し内部住空間を一新し近代化した上で、住民を収容する公営住宅の建て替えとする公共事業とした。「土地政策と都市再整備を一体化」による都市再生整備計画を推進し、庶民の暮らしを守りつつ中心市街地に賑わいを取り戻し発展させることによって、持続可能な都市基盤を目指した。
そのために従来型再生計画と一線を画して、街区をまるごと修景による建替という「街区単位の整備事業として再生する」とした。同時に遊休工場空間・休眠施設の転用により、住民が楽しめる文化施設へ転換しかつ内容充実も組み込み、「くらし重視」の街再活性化を図る「旧街区の修景・新機能付加による近代化」へと現実的で、歴史的な景観も活かした整備計画とした。
ハードのみならずソフト面においても文化施設充実や文化環境のレベルアップによって住民生活の質向上を目指した総合的な保存改善計画とした。

このように「くらし良さ」「持続性」を構想の基本軸とした「社会的保存」と呼ぶボローニャ方式が採られた。このような再生方式は、イタリアにおける街の再活性化対応のひとつとして一石を投じた。この都市整備事業はソルフェリーノとサン・レオナルド地区などに適用することとした。

結果として、生まれ変わった再開発街区はくらしの満足と文化環境の質的向上による生活のし易さが人気を呼び、賑わいを取り戻し再活性化は成功を収めた。
この再開発の結果により不動産的価値が高まり、民間による街の再生計画をも誘発し周辺街区の再活性化が促進され、8割近くの住民が引き続き住みたい街となり、ボローニャ市は「くらし」「しごと」「文化」が調和した街として成功し、人気を得ることとなった。

この再開発の基本構想は、

  • 住民のくらしを優先した「街区一体化」による再生計画
  • 伝統的様式建物を活かし街区の修景と建物内部の近代化リフォームによる修復
  • 住民の交流親睦のため遊休建物・施設を改装し文化施設へ転用
  • 再生計画で従来型の「スクラップ&ビルド」によらず「社会的保存」を構想

上記のような要素を含んだボローニャ市の再活性化計画は、既存の社会基盤を活かしつつ改善保存するという現実的な都市整備事業のあり方の有効性が注目され、創造都市モデルとして賞賛された。

ボローニャ市は、「文化」と「くらし」と「産業」が融合する創造文化都市として将来を見据え、さらなる都市基盤の質向上のために、広場・街路などの改修・修築、職人などが息づく街づくり、ポルティコの改修・修築を継続推進する。

また、都市情報ネットワークの充実整備や市民の都市環境とモビリティーに関しても関心が高いことから、自動車の中心市街地内における排気ガス汚染低減、旧市街地の歴史的景観の保全などのために、1984年に行われた住民投票の結果、自動車の中心市街地への乗り入れ規制、歩行環境の拡充整備、スムーズな交通流のための電子交通制御の整備、公共バス路線の充実、中心街と主要周辺を結ぶトロリーバス路線の拡充、さらに将来計画としてトラム(路面電車)の整備プロジェクトが進められ、主要バス路線・トロリーバス路線を2026年頃に置き換える革新的な交通整備計画を掲げている。成熟社会における高齢者を含む全世代層を対象とした便利なモビリティーの実現によって、より快適な移動を市民と観光・見本市などの来訪者に提供することを目指している。

見本市で国際都市化

ボローニャは、古代より重要な交通要路であるエミリヤ街道の拠点として北イタリア交通のハブであったことから、家畜市など種々の市場が古代・中世より開催され商業拠点として栄えた。ボローニャ市はこの地の利を活かし、拡張成長策によって「大都市化」を目指したが目標ははかなくも消え夢となった。

そこで、都市政策を「大都市化」から「国際的都市」へと構想の転換をした。文化・学芸水準の高さだけでなく、周辺都市圏における広範な伝統産業から先端産業を含む産業集積の多さを利点として活かし、1960年代に人気の観光スポットであるエンツォ宮などを会場として児童絵本市を企画スタートし、その後、イベント内容を順次拡大させた。

Wikipediaより引用 [ ユーザー:Kalel77, CC BY-SA 3.0 《https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0》, via Wikimedia Commons ]

1975年に日本の丹下健三(たんげ けんぞう)氏設計により、Bologna Feire(Fair:常設展示会場)が新設された。そして以降、ファッション、革製品、美術、化粧、工業製品機器、技術機器、生活用品、健康、梱包・パッケージ機器関係などなど多彩な業種イベントが企画、開催されようになった。
1年中(7-8月を除く)、国際見本市として年間30種のイベントが開催され、国際的な見本市都市に成長した。また、ソフト面においても市民の協働を得て、伝統と近代を交えた魅力的な活性化計画を進めている。絵本や地域産業に由来した見本市が開催され賑わいを増し、ボローニャをさらに魅力のある国際的な街にしている。さらに常設展示会場周辺はビジネス産業地区として、ビジネス・起業の誘致を積極的に推進し、単なる観光消費都市でなく文化と産業を融合した文化創造都市として変革している。

特に、日本でも関心を呼んでいるのが「Bologna Children’s Book Fair(ボローニャ国際児童図書展、以下BCBF)」である。BCBFは、1964年にスタートした。見本市計画として、ボローニャ市における文化レベルを示せる内容として種々検討し玩具関連市なども構想されたが、より文化的であるイベントとして児童図書見本市に決められた。会場は、エンツォ王の哀話で知られ観光スポットで歴史的建造物であるエンツォ宮として、開催場所の魅力のアピールを前面に押し出すこととした。当初は小規模であったが、この会場名「エンツォ宮」という観光スポットを前面としたアピールが奏功し好調なスタートとなった。だがBCBFへの展示や参加者は増加したが、長い赤字が続いた。それでも見本市の開催を継続した理由は、ボローニャの都市としての文化レベル評価の向上と、国際見本市としての市場認知向上であった。継続努力により参加者、来場者を順調に増加させた。

しかし来場者数の増加により会場の収容規模を超えたことで、途中から版権取引の場という取引機能中心となり、ビジネス関係者のみが入場できる仕組みへと変貌した。結果として住民などを含む一般入場が制限され、このような変化に対して「児童図書の見本市なのになぜ子どもたちが入れないのか?」「文化都市ボローニャにあるまじき行為だ」という市民からの強い非難・反発が起きた。この問題解決のため、住民などが考案した対応策が「見本市会場から飛び出し市街でブックフェア」という企画である。これまでのBCBFに対して、会場を含め広く街で開催するという柔軟なイベント内容への転換により、図書館、児童書専門店、美術館など市内の複数施設で、子どものためのワークショップや絵本作家たちの講演会や受賞図書展示会が行われるよう改革されたことにより、ブックフェアが地元に密着した恒例地域行事となり、賑わい、盛況を増した。まさに住民、街、イベント開催事業体が協働一体となって、さらにボローニャの名声を高め、今日に至り国際的な見本市として確固たる地位を占めるようになった。また、ワークショップなどの新企画も柔軟に行い、成功と消滅を繰り返し、試行錯誤しながら持続的な発展の基盤を築き、BCBFは児童書の見本市として世界最大となった。
BCBFには出展者として参加している出版社や団体が出版した本が応募できるBologna Ragazzi Award(ボローニャ・ラガッツィ賞)という賞があり、日本も青少年の本部門で『安野光雅の画集 ANNO1968~1977』(安野光雅 2020年没)がグラフィック大賞を受賞するなど、これまで10作品ほどが受賞している。

ボローニャ国際児童図書展ポスター
https://www.bolognachildrensbookfair.com/home/878.html
東京会場でのポスター

1967年にBCBFのなかで、ボローニャ国際絵本原画展(Bologna Illustrators Exhibition)が始まった。プロ・アマチュアを問わず門戸を開いているため、現在では児童絵本作家の登竜門ともなっており、世界中から毎年多くの参加がある人気の高い見本市である。
日本では「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」という名称で1978年より西宮市大谷記念美術館で始まり、1981年からは東京・板橋区(2005年にボローニャ市と友好都市交流協定を締結)の板橋区立美術館で毎年開催され、国内各地でも巡回開催し、ファミリー層などに好評を得ている。(2021年開催情報はこちら)
ボローニャ市のこのような都市活性化事例は、世界的な文化イベントの成功事例として称賛されている。ボローニャは「文化」「ひと」「くらし」「しごと」を融合し、歩くに楽しい優れた都市基盤、生活の質、文化レベルでイタリアでもトップレベルとされ、文化創造都市として評価されている。また一人当たりの就業事業所数もイタリア国内でトップとされ、ボローニャ市は単なる消費的な観光都市でなく創造生活都市へと進化している。

閑話休題:ロンバルディア同盟(Lega Lombarda)

中世12世紀ころまでは、ロンバルディア地方は神聖ローマ帝国が宗主権を有する一地方であった。神聖ローマ帝国(ホーエンシュタウフェン家)皇帝フリードリヒ1世(赤髯皇帝)は、本拠地ドイツから南進しロンバルディア諸都市における支配権の確立を目指したが、自治を守るために都市が皇帝に対抗して結成したのが「ロンバルディア同盟」である。この同盟に対して政教一致による宗教勢力拡大を目指して支援したのがローマ教皇である。以降、ローマ教皇が支援する教皇派(ゲルフ)と皇帝派(キベリン)が戦闘を繰り返した。ボローニャはミラノ、クレモナなどとともにロンバルディア同盟に参加し、教皇派として、皇帝派と交戦する。1183年にコンタンツ和議が締結され、これらロンバルディア都市は皇帝に忠誠を誓う一方、皇帝から自治を認めさせ和議が成立した。

1220年、フリードリヒ1世の孫にあたるフリードリヒ2世が神聖ローマ帝国の皇帝に就くが、宗教的に寛容かつ開明的なフリードリヒ2世は、カトリック教会の守旧的な教皇たちとたびたび反目し、頑なな教皇グレゴリウス9世により宗教破門されるが、欧州における宗教的大義を背負い十字軍(第6回)を率いて聖地エルサレムを無血開城させた。しかし、聖血を流さない戦に対して教皇は不満を持ち、破門を解かずさらに対立を深める。またロンバルディア諸都市に対してポデスタ(都市行政長官)を派遣し統治を進める政策に対して、ロンバルディア諸都市は皇帝に対抗しロンバルディア同盟が再度結成した。自治権闘争として帝国政府と自由都市、宗教統治闘争としての皇帝派と教皇派による二重的争乱が復活した。多くの交戦では文武両道かつ戦さ巧者のフリードリヒ2世が率いる皇帝軍が勝利するが、1239年、狡猾な策略家である教皇グレゴリウス9世は、フリードリヒ2世の庶子エンツォのサルデーニャ公女アラデシアとの結婚の無効を宣言し、エンツォが結婚で得たサルデーニャ王位を剥奪、さらに破門を解かれていたフリードリヒ2世に対しても再度破門を科した。このサルデーニャ領有問題で、フリードリヒ2世とグレゴリウス9世の対立はさらに亀裂を深めた。
ロンバルディア地方を主とした北イタリアで皇帝派と教皇派との争乱は、都市間の抗争、都市内部の派閥闘争にまで発展し激しさを増した。このような争乱状態を収めロンバルディア地方の安定強化のためにとフリードリヒ2世は、文武に優れるエンツォをイタリアにおける自分の代理とした。フリードリヒ2世は、対抗する都市に攻勢をさらに強めた。そのような時に攻撃をうけていた皇帝派に包囲されたモデナの救援のためにエンツォを急派させた。しかし行軍中にボローニャの巧みな奇襲作戦によりエンツォ自身がボローニャ軍に捕縛され、エンツォは鎖で繋がれて馬とともにボローニャに護送された。フリードリヒ2世はエンツォの釈放を度々求め、人質の交換、身代金などを提案したが、ボローニャ側は自治を守るために拒否し続けた。

ボローニャ側は捕縛したエンツォをサルデーニャ王として扱い、敬意を持って遇したが警備は厳重に行われ、与えられた大広間では、昼間は散策や女性などの面会といった自由が認められたが、夜間は大広間の中央に吊るされた鉄檻に入れられ厳しい幽閉状態であったと伝えられる。好男子でさらに文芸の才能に秀でていたエンツォは詩歌などを吟じ、若いボローニャ市民たちは親しみを持ち、たびたびエンツォを訪れ、詩を吟じ市民と交流し人気を得ていたと語り継がれている。そして死ぬまで詩作を続ける23年間の幽閉生活であった。しかしながら、父のフリードリヒ2世と再会することはかなわないまま、23年間の幽閉生活をおくったとされる。エンツォが拘束監視されていた館が後に人々によってエンツォ宮殿と称されたのは、ボローニャの彼に対する敬愛と憐れみから発したことからと伝えられる。エンツォは生涯の前半は波乱に明け暮れた武人として、後半は捉われの身ながら詩を吟じ市民から愛された悲運な文人として、1272年にその生涯を閉じた。死後、エンツォは多くのボローニャ市民によって王としての格式を持った葬儀が挙げられた。そしてボローニャの地に眠るエンツォ王の物語は、ボローニャの人々の記憶に永く残ることとなった。

一方ロンバルディア同盟は、1250年にフリードリヒ2世の死去とともに消滅した。

≪参考≫
「ボローニャ紀行」 井上ひさし 2010年 文春文庫
「ボローニャ ブックフェア物語」 市口桂子 2013年 白水社
「ボローニャの大実験 都市を創る市民力」 星野まりこ 2006年 講談社
Ciita Mtropolitana di Bologna
2020イタリア・ボローニャ国際絵本原画展|板橋区立美術館