社会リサーチ・サイエンスト、日本専門家活動協会理事 青山学院大学社会情報学部元客員教授

小畑 きいち

学歴:青山学院大学で経営学を学ぶ、東京電機大学大学院で都市工...もっと見る 学歴:青山学院大学で経営学を学ぶ、東京電機大学大学院で都市工学を学ぶ、
東京大学大学院で技術管理・MOT を学ぶ

職歴:米国系メーカーで、ソフト製品開発、コンサルタント、マーケティング、国際協働チームマネジメント、
カストマー・サポート統括、産学連携マネジメントを歴任

教育歴:工学院大学、浦和大学、東京大学先端研、早稲田大学(早稲田総研)、青山学院大学、東京電機大学などで非常勤、常勤、特任、客員など講師、研究員、教授などで従事

担当分野:システム工学、E-ビジネス、プロジェクトマネジメント、技術経営、社会情報、ユーザ・リサーチ、AI、空間計画(街づくり)、都市交通、都市社会、起業論など

ウクライナ共和国はユーラシアに属するロシアを除くとヨーロッパ最大、その面積は603,500km2で日本の約1.6倍、人口4,413万人(2020年)で日本人口の約36%強である。地形は北西カルパチア山脈の高地から、東部、南部の肥沃な平原へと広がり、東欧の穀倉と呼ばれている。
ウクライナ共和国の首都であるキーウ(ウクライナ語)は、キエフ(ロシア語)とも呼ばれ、ウクライナで特別な自治権を有する特別市である。キーウはウクライナ中北部に位置しており、ドニプロ川中流域の丘陵から平野に広がり、一帯は多くの緑に覆われた歴史的文化都市である。
現在、人口は295万人で都市圏としては350万人を有する広域都市であり、旧ソビエト連邦時代においては、モスクワ、サンクトペテルブルグ(旧レニーングラード)に次ぐ第三の都市であった。
また、キーウは東スラブ文化の発祥地とも称されている。

キーウ・ルーシ(キエフ・ルーシ)の形成

9世紀頃のキーウ公国

「ウクライナ」は、9世紀、ノルマン人(現在のスカンジナビア周辺の種族)のバイキングによって創建されたとされる。彼らは自らをルーシと称し、その頭領リューリックが率いる部族はスラブ種族が居住する未開地に移住しノヴゴロド公国を建国した。その一族であるオレーグは、毛皮などの狩猟・取引を生業としていた。
当時の大国である東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との交易を目指し南下し、ドニプロ(ドニェプル)川中流のキーウ(キエフ)を占領し定住し、下ってキーウ・ルーシ公国を創建した。以降、ルーシ人は原住民の東スラブ種族へと同化していく。

9世紀末期にはキーウ・ルーシ公国のヴォロディミール(ウラディミール)1世は、勇猛なバイキングを傭兵として雇い武力により領土を拡大し黒海への通商ルートを得てビザンツとの通商交流も盛んとなり富を蓄え東欧一の大国となり、その拠点であるキーウは繁栄した。
その時期に、内乱状態であったビザンツ帝国皇帝の要請を受け軍隊を送り込み支援を行った。その見返りとして、皇帝にその妹である王女アンナを后にと要求し、アンナを妻として皇帝と血縁となり、キーウ・ルーシは文明圏に連なるようになった。またヴォロディミールはビザンツ帝国の国教であるキリスト(ギリシア)正教へと改宗し、彼はきらびやかなビザンツ文化に魅了されその文化を積極的に導入し国を挙げてビザンツ化を進めた。

キーウ(キエフ)の繁栄と荒廃

キーウ・ルーシ公国は、それまでノルマンのバイキング文化を受け継いでいたが、キリスト正教(ギリシア正教)を国教としたことで、ビザンツ帝国のコンスタンティノープル総主教の宗教管轄に入り、キーウは一聖地としても繁栄し、東欧最大の都市となった。

ウクライナの国章

その繁栄期の君主であるヴォロディミールと次代のヤロスラフの治政下にはビザンツ風のきらびやかな大聖堂や修道院など多く建てられた。この最盛期にヴォロディミールが使用した記章模様が、今にも伝わるウクナイナ国章である。
だが12世紀になるとビザンツ帝国の衰退、欧州ルネサンス興隆などにより地中海地域へと交易の中心が移行したことで、ドニプロ川沿いの交易取引が衰退した。さらに内紛によりキーウ・ルーシ公国は分裂し弱体化する。

1240年頃、アジアからバトゥの率いるモンゴル軍の侵攻で、キーウ、モスクワなど東スラブ圏の国々が侵略され、キーウ・ルーシ公国は壊滅し、キーウは破却された。モンゴル・キプチャク汙国による征服以降、キーウ・ルーシ領土は分割され、後に西方はポーランド、リトアニアなどに併合される。一方、モスクワは「キプチャク汙国」の属領となったが、イワン1世時代に「モスクワ公国」として認められ、後にロシア帝国へと進展する。ウクライナは、17世紀以降ロシア、ソビエト連邦の統治下に組み込まれその一部となる。
政治都市のモスクワ、西欧的景観都市サンクトペテルブルグに対比し、キーウ(キエフ)は東スラブ文化揺籃の歴史都市として、ウクライナ人のみならずロシア人にも歴史文化上において欠かすことのできない文化発祥の地として独自の位置を得ていた。

ウクライナの独立とキーウの文化都市再生

ソビエト連邦解体後、ウクライナは永年の願望であった独立を1991年に果たした。しかし独立後も混乱が続くロシア系住民の多い東部地方では、ウクライナ語を解せずロシア語を話す人が多くを占める。一方、西部・中部ではポーランドやオーストリアなどの統治下にあったことから、西欧カトリック文化の影響を受け自立意識が高いなど、ウクライナへの帰属意識は地域により濃淡が生じて、政治は不安定となり経済は低迷した。
そこでウクライナ政府は国家の再生と国民の一体化を目指し、キーウ市を民族文化の再生拠点として、キーウ・ルーシ公国から連綿と続く伝統的なウクライナの歴史的建造物の復元、修復など整備を進め、国民の誇り再生と観光立国を目指した。

キーウ市街はドニプロ川の右岸の丘陵「聖ヴォロディミール(ウラジーミル)の丘」を中心に発展し、史跡が多い旧市街地と左岸には開発が進む郊外地域とに構成されている。伝説によるとキーウ市は9世紀前後にキーイ、シチェク、ホリフの3兄弟と妹らにより創始されと伝えられている。

ヴォロディミールと次のヤロスラフの最盛期にはキリスト正教会の府主教座が置かれ、聖地のひとつとして東スラブ圏文化の中心地と意識されるようになった。ソビエト連邦統治下においては宗教抑圧されていたが、ソ連解体で宗教への弾圧も解かれ寺院など歴史的民族遺産として鮮やかに復活された。

リーウ市内にはこれら史跡、記念モニュメントと歴史的建造物などが黄金のドーム塔、鮮やかな青や水色の壁面などが修復され再び輝きを増し、人気を集めて主要なキーウの観光スポットとして甦った。ここでツーリストに人気の主な歴史的記念施設などを紹介する。

① キーウ創始記念モニュメント

キーフの歴史と国民の誇りを記すために1982年に伝説のキーイ、シチェク、ホリフと妹の像が創建された。長年の風雨にさらされ金属体が部分腐食し崩落したが2010年に復元。

② キーウ黄金の大門

1037年にヤロスラウにより創建された。13世紀にはモンゴル軍によって破壊されたが、1982年に復元された。作曲家ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』の最終章「キエフの大門」とは、この黄金の門を指すとされている。ロシア人にも親しみを持たれているモニュメントでもある。

③ 聖ソフィア大聖堂

1017年もしくは1037年にヤロスラフの戦勝記念として建造されたとされる、ギリシア風のビザンツ様式の大聖堂で、キーウ最古の寺院。17世紀末~18世紀初頭にかけて改修され、1990年世界遺産に指定登録された。

④ ペチェールシク大修道院

11世紀の半ば、正教会の修道士がドニプロ川沿いの洞窟で修行したのが起源とされる。モンゴル軍の侵攻によって破壊されたが、ウクライナ・バロック様式の建築群は帝政ロシアのピョートル1世時代に再建され、18世紀初頭に大改修が行われた。1990年に世界遺産に登録され、2000年に再修築された。

⑤ 聖ムィハイール修道院

1469年にウクライナ正教会の修道院として創建、1934年から大聖堂や鐘楼などの建物は共産党庁舎を建設するために破却された。ウクライナ政府は1995年に聖ムィハイール黄金ドーム修道院の復元を決定し、1998年に復旧竣工。後に修道院はウクライナ正教会・キーウ総主教庁に譲渡され、2001年修道院へと復帰する。

⑥ 聖アンドリーイ教会

帝政ロシア1754年に創建、1932年にソ連政権によって閉鎖され博物館となった。2008年に政府により大聖堂博物館からウクライナ独立正教会へ返還・改修された。外装はロシア・バロック様式だが、内装は優美なフランス風ロココ様式で飾られ、西欧文化の香りの趣もあり、キーウ市街の下町、ボディール(Podil)歴史地区近傍に存在する。

他にも市内には記念モニュメントや文化施設も多く、特に旧市街地は多くの魅力的な観光スポットに恵まれている。中心部のフレシチャーティク通りや広場・公園などでは、春にはライラックなど緑に溢れ、また秋には街路樹が紅や黄に染まり、街を彩る黄金の甍と青または水色の壁面が鮮やかな大聖堂・修道院・教会などの建造物は四季折々に美しい景観が映え、訪問する人々を魅了している。
また、ウクライナではNFT(Non-Fungible Token)の販売を通じた収益によって戦災で損傷した美術品・歴史記念物などを復元・修復するための資金活動が進められている。

キーウ市は同じ千年の歴史を有する京都市と1971年に姉妹都市協定を結んでいる。

※ ブロックチェーン上に記録される一意で代替不可能な単位であり、デジタルアート作品と紐づくことで、作品の貴重さ、唯一性を担保する。

産業の低迷・停滞から新たな産業による再生「IT産業立国」を目指す

ウクライナ人はソ連時代に軍事・宇宙科学など広い分野で活躍し、科学技術能力が高いと評され数多くの科学者・技術者を輩出していた。現在も、科学技術分野における技術知識力の潜在力が高いとされている。しかし、ソ連解体以降の政治経済体制転換による政体の変革に失敗、経済体制も旧態然とした。国内政治においては、オリガルヒ(汚職新興財閥)などと癒着し、汚職政治がまん延した。体制の停滞により経済生産性の低下を招き、ソ連解体前と比較するとGDPが41%にまで低下し、後進的産業国に低落した。一方、農業は東欧の穀倉と称され、食糧輸出がGDPに大きく寄与する状態となっている。
そこでウクライナ政府は、新産業の核としてIT産業の育成を目指すこととした。高いIT技術・知識力と労賃の低さを武器に、西側諸国などからのITアウトソーシング産業の進出・技術移転で急成長し、情報産業が新たな産業として萌芽し、ウクライナ人でIT業界に就労する人が増加している。
その背景として、以下が要因とされる。

  • 『IT産業の給与水準が他産業と比べ高い』
  • 『ウクライナにいながら外国の仕事を受注してリモートで働く機会も得られる』

またウクライナ政府は、重要政策としてITインフラ基盤整備に力を入れ、2015年には「E-Government 」構想を積極的に進めて公共行政サービスのデジタル基盤整備を急いだ。より先進的なウクナイナ国家へと転換を図り、東欧のシリコンバレーを目指している。その中心地のひとつが首都であるキーウである。

デジタル基盤整備の一環として、ウクライナ政府は「Trembita(トレンビータ):データ連携基盤」、「Diia(ディーア):電子政府ポータル」などを使用した行政業務のシステム化を進めた。コメディ俳優経験と情報ネットビジネスの経営経験も有するゼレンスキー大統領は、未来指向を目指し、キーウ、ハリコフなどを中心に都市のスマートシティー構想も図った。
その見本としたのが先行成功例であるエストニアで、IT分野において提携も深めている。IT技術に精通する若き才能を持つ専門家の抜擢登用も進めた。人材育成においては、キーウ工科大学をはじめとする高等教育機関などにより、IT人材を多く輩出し続けている。ウクライナにおいては、2018年時点でのウクライナのIT専門家は18万4千人で、2025年には25万人まで増えると見込まれ、IT関連学位の学生は毎年1万6千人も輩出される。さらに、13万人がエンジニアリング関連の学位を取得し、それら技術者を目指して欧米の大手IT企業などの進出もあり、一部はリモート方式による企業活動を継続している。ウクライナは将来を見据えてITによる産業創生で国力強化を目指している。IT産業の市場規模は2018時点では約45憶ドル(約6030億円)と10年間で8倍に拡大している。
混乱するウクライナであるがIT産業は成長の途上にある。ウクライナの将来性とポテンシャルを見越し、戦乱後の復興を見据え、ウクライナ再建への商談会も開かれており、欧米韓国などの企業によって動きが始まっている。

[参考、引用]     
(1) 服部 倫卓、原田 義也、他 ウクライナを知るための65章 明石書店 2018
(2) Serhii Plokhy “The Gates of Europe: A History of Ukraine” Penguin Books 2016
(3) 黒川 祐次, 物語 ウクライナの歴史 中公新書 2022
(4) JETRO 地域分析レポート 知られざるウクライナIT産業のポテンシャル 2020
(5) 東京新聞(Web版)2022/6/22刊
(6) Osnovy Publishing LLC ” Awesome Kyiv: Interesting things you need to know” 2019
(7) アレクサンドラ・グージョン (著), 鳥取 絹子 (訳) ウクライナ現代史 河出新書 2022
(8) Dom publishers “Kyiv. Architectural Guide” 2023