特定非営利活動法人 日本プロジェクトマネジメント協会 理事長

光藤 昭男

東京工業大学制御工学、MIT(マサチューセッツ工科大学 Sl...もっと見る 東京工業大学制御工学、MIT(マサチューセッツ工科大学 Sloan School MOT)修了。

東洋エンジニアリング株式会社産業システム事業本部プロジェクト本部長、株式会社荏原製作所取締役常務執行役員経営・事業企画統括・情報システム統括、IT エンジニアリング株式会社代表取締役社長、株式会社荏原エージェンシー代表取締役社長を務める。

特定非営利活動法人日本プロジェクトマネジメント協会理事長、2019年7月1日より特別顧問。

日本の歴史に登場する人物のなかで痛快に感じる武将の筆頭は織田信長だ。混乱する室町幕府下の武家社会を再統一に向けて大きな足跡を残したからだ。しかし、この天下統一を目前にして、京都にて明智光秀の急襲をうけ自刃したとされる。信長は織田家を継いでから幾度ともなく蹉跌を味わったが、その都度才気を働かせ、決定的な痛手を被るまでには至らなかった。後に“本能寺の変”といわれる最後の時は、毛利輝元の出城である備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉の要請を受けて、少ない手勢で安土城を出て備中に向かう途上の京都の宿本能寺にて襲されたとされる。意外だが、本願寺は京都の定宿ではなかったという。勝手の判らない寺社であったことになる。不運といえる結果だが、致命的な大失敗を犯したことになる。

書物に依れば、信長は常々多くの情報を集め、周到に準備し、勝てる確証を得てから戦場に出向いたとされている。自ら賭した奇襲戦は生涯にただ一度だけ、桶狭間の戦いで休息中の今川義元の隙をついた時のみであった。騎数は諸説あるようだが、今川軍二万五千騎に対して織田軍は三千騎が通説のようで、圧倒的な戦力差があったことは事実だ。正攻法ではこの戦力差を覆すことはとうてい無理であると必死に考えた結果、奇襲するという賭けに出たのだろう。これ以降も負け戦はあったが、準備は怠らなかった。緒戦では一方的に完敗した毛利水軍との闘いでも、深く反省し、自ら鉄板船を発案して対抗した。

この頃から情報戦が始まったと思われる。有力武将は、後に“忍者”と呼ばれことになる諜報担当を用いて敵情報を集め、戦いを有利に導くことに腐心した。中でも情報戦に特に秀でていたといわれた武将の一人が信長と言われる。自ら的確な判断をするために諜報情報を重んじたことで知られる。大勝負の前に自分なりの覚悟の定め、偏りのない合目的な情報を極力集めさせた。その情報の中から“その時、その場所、その場合”に相応しい情報に絞り込む。情報の質が組織の死命を制することがあるので、情報の扱いには慎重さと各所から得た状況の判断が必要だ。収集した情報には常に誤謬が伴うため、決行には相当な洞察力と覚悟がいる。目的を定めずにただ無目的に集めるだけでは、自らの覚悟に相応しい情報を得ることが出来ない。

目的・目標を明確に定めたうえで、大きな絵である戦略を定める。その戦略構築には正しい情報の入手が必須だ。多くの情報から重要事項を選択するには、情報を読み解き、理解する総合的な「知」、すなわち、広い知識と深い智慧がなければならない。智慧は個々人の能力に発するが、その人の「歴史観」にも依存するという。さらに歴史観は教養の深さに通じる。信長をはじめとする歴史に名を残す英傑たちは、その生きた時代に相応しい高度な教養を持っていたと思われる。

だが、教養だけでは果敢な行動に結び付けることはできない。教養に基づき考え抜く「思考力・決断力・実行力」が備わってこそ、自らの行動により自分の望んでいた結果を出せる。信長は実際このことを体現させている。話は多少飛躍する。戦後、日本が高度成長を達成できたのは、日本にとって幸運な世界情勢もあったが、多くの日本人が教養に基づく勤勉さがあったからだという。元通商産業事務次官の福川伸次氏が電通総研研究所長の時のインタビュー記事(朝日新聞)で「日本人が一番しっかりしていたのが『仕事のきちょうめんさ』だ。日本の高度成長を支えていた」と述べている。この「きちょうめんさ」は、「細かいところまで、物事をきちんと行うさま。決まりや約束にかなうように正確に処理するさま」(電子Weblio辞書)だ。この高度成長を支えたのは第二次産業の製造業であった。その製造現場で成果をあげ習慣化されていたのは品質管理活動(QCサークル)だ。中でも5S活動「整理・整頓・清掃・清潔・躾」を日常的に実践し習慣づけることによって、品質向上だけでなく、製造原価の低減にもつながった。この成果はやがて、第三次産業にも広がって高度成長を支えた。教養に加えて日常活動の規律化・習慣化が大きかった。情報と情報化はここでも活動を支えるインフラとして不可欠であった。

高度成長が停滞し始めた1990年以降に、いわゆるバブル経済の崩壊を向かえる。福川氏は続けて、「この規律が崩れている。組織や社会の緊張感の欠如や責任感の低下が多くの不祥事を招いている。まさに『日本病』だ。『ジャパンアズNo.1』と欧米にもてはやされた1980年代以降、心のどこかでおごりが生じ、管理能力がたるみ始めた。自らを律する政治家や官僚も減り、職場は『上がたるみ、下もたるむ』風潮が広がった。トヨタ自動車など一部を除き、チャレンジ精神を育む雰囲気をつくるリーダーも少ない。不況の脱力感が人為的なミスを招き、保身の経営につながり、停滞を長引かせる悪循環と言える」(一部省略・修正)と手厳しい。

この同じ時代、世界最強の軍事・経済大国となったのはアメリカ合衆国だ。戦後政治体制の違いを廻ってソビエト連邦と世界を二分する「米ソ冷戦」を引き起こしたが、その豊富な資源を基盤とした「豊かな社会」を築き上げ、世界最強国への道をたどってきた。その中で多くの巨大企業が誕生した。「アメリカ経営史の草分け」と評され経営史上しばしば引用されてきた巨人は、アルフレッド・Ⅾ・チャンドラー教授(1918~2007)で、ハーバード大学やジョンズ・ホプキンズ大学において経営史の教授を務めた。 現代企業の大規模化と経営構造の変化について幅広く執筆している。

書の中で「国の経済成長と競争優位性は、天然資源、労働力、経営手法、利用可能な資本、そして国内市場の大きさだけに依存するものではない。 過去百年に国の富は組織と技術に依存していた」と主張し、世界に大きな影響を与えた。生産技術を次々創造し、改善し、管理する組織構造をもつ企業の能力に依存しているとした。研究対象として取り上げたのは4社だ。その4社とは、米国巨大企業の、化学のデュポン社、自動車のゼネラルモーターズ社、石油のスタンダード・オイル社(エクソン・モービル)、百貨店・小売業のシアーズ・ローバック社であった。この4社の企業活動を詳しく調査研究した結果、類似の活動パターンを発見した。その結論が「戦略は組織に優先する」だ。企業経営上では、他の経営資源に対して、戦略の優位性を説いたのである。当然、企業内でこのことを実現させる主役は「経営者」である。従来の経営者がKKD(カン、コツ、度胸)で会社運営してきたことに対して、それ以上に戦略の重要性を説いた。

戦略とは数ある選択肢からの選択であり、組織は何をするか、何をしようとしているのか、リーダーは目標を決断し、明確に具体化し、その結論を部下に示し続ける責任がある。この原則で経営されてきたのが4巨大企業だという。詳細な戦略・組織研究の結論が、本のタイトルとなった「組織は戦略に従う」(”Strategy and Structure”)だ。当時進行中であった多角化と国際化という経営戦略を効果的・効率的に成功させるには、独立採算制をとる“事業部制”がふさわしい。更に、事業部制を有効に機能させるためには、本社機能の役割が重要だとの説を導き出した。

企業の経営情報を的確に把握するために情報システムが利用されている。事業部制をとれば事業部は、一つの企業として扱う。企業のヒト、モノ、カネの動きの実態を情報システム支援により把握する。情報を収集し、分析し、行動に間違いがないか戦略通りに行われているか、戦略が正しく機能しているかを検証し、状況が変化すれば時に戦略を変更する。情報システムは、これらの活動を貫く神経系だ。戦略を正しく機能させる要だ。繰り返しになるが、戦略とは“選択する”決断だ。その選択・決断は先見性、勘、胆力あるリーダーにしかできない。リーダーは組織に何をするかさせるか、これから何をしようとしているのかという目標を決断しなければならない。

織田信長に限らず、戦国武将の決断は命を賭して行われる。間違えば命を失い過去のヒトとなる。現在でも決断には情報収集が不可欠だ。情報の利用に関して、日本人が陥りやすい判断を狂わすポイントが挙げられている。全く同感だ。

  1. 日本型タコツボ社会における小集団の弊害
  2. 理性的な判断の目を曇らせる情緒的・ムード的な思考の支配
  3. 現象面での成果を急ぐ短兵急な発想
  4. 時間的、空間的な深まりを持つ大局観、複眼的な思考、多面的に考える姿勢の欠如
  5. 国際社会における位置付けの客観的な把握力不足

正しい情報を的確に収拾する手段、それを分析する能力、行動に移す能力、反省しフィードバックする仕組み。いずれも幾度となく言われていることだと思うが、信長から現代まで共通する課題だ。心しておかなければならない。

【 参考 】
 ・ 日本人はなぜ同じ失敗を繰り返すのか – 撤退戦の研究:光文社:半藤利一、江坂彰