東京大学 情報理工学系研究科 システム情報学専攻 教

安藤 繁

...もっと見る

いよいよ本格的な暑さの訪れとともに、夏休みが待ち遠しい時節になってきました。7月の初旬には夏休みに入った昔は良かったとぼやくのもこの頃です。私が学生の頃はこれを生かし、梅雨明けのタイミングを待ちかまえて山に出かけました。梅雨明け直後は天気が非常に安定するのと、まだ沢筋には雪が残り、登山道わきのお花畑も初々しいままだからです。今年は震災の影響で学期の始まりが遅れ、夏休み開始が8月中旬までずれこんだため、この山が最も美しい時期を味わえない学生にはまことに同情します。

写真(図1)は甲斐駒ヶ岳です。多くの人にとってもそうでしょうが、私が最も好きな山で、学生の時以来、何度も何度も登りました。甲斐駒ヶ岳は標高2967m、甲府盆地から諏訪に伸びる山峡地帯、そこを流れる釜無川から一気に立ち上がります。その屹立する東壁は、大断層線の糸魚川静岡構造線の西側にあたります。中央本線からも、中央高速からも、国道20号線からも、見上げるほどの迫力で眺められます。日本百名山のひとつですが、十名山にも選ばれる名峰であることは間違いありません。全山花崗岩からできていて、森林限界より上は夏でも雪と間違うような白さで輝いています。花崗岩を刻んだ尾白川の美しい流れや、付近で採取される地下水も有名です。
山梨県側からの登山道は、写真の右側に黒々と盛り上がる黒戸尾根にあります。国道20号線の白須という交差点からわずかに入ると駒ヶ岳神社があり、その裏の吊り橋で尾白川を渡ると、そこから早速急登が始まります。途中、刃渡りの険、刀利天狗など、若干視界が開けたり緊張するところもありますが、ほとんどは暗い森の中の道で、数時間以上ひたすら足下だけを見て登り続けることになります。よっぽど朝早く登り始めないと、その日のうちに頂上に到達するのは無理で、途中の五合目か七合目に泊まることになります。私は切り立った山容と頂上を間近に臨む七合目の山小屋が好きで、長い登りに耐えた充実感の夕暮れの中で、コーヒーを湧かしてくつろぐのが無上の喜びでした。

図1. 中央本線日野春付近から仰ぎ見る南アルプス甲斐駒ヶ岳とアサヨ峰の勇姿。甲府盆地の釜無川から一気に立ち上がるその山容には圧倒される迫力がある。登山道のある黒戸尾根は画面右側の山塊。(写真は「千」氏撮影の「甲斐駒ヶ岳 勇姿」http://photozou.jp/photo/show/184313/35610857から)

さて、本題です。上記の暗い森の中の長い登りなど、苦しさを伴い直接的成果が見えない中での課題の遂行は、いつでもどこでも必要ですし求められます。このような中で、つい出がちな弱気を乗り越え、あきらめず、がんばり続けるには、どのような気持ちや行動様式をとればよいのでしょうか。おそらく、多くの人はそれぞれの方法を体得していると思います。以下は私の方法の紹介です。近年の大学では、このような点の訓練が未熟な学生が多く見られ、目標を見失ったり鬱病になったりすることがかなりの割合で生じています。大学においても身近で重要な問題になっているのです。
私は山登りが得意だったわけでは全くありませんでした。スポーツ全般が苦手で、小学校の低学年の時に大きな病気をしたこともあり、体力は劣り、体育の時間はいつも番外組でした。山の雰囲気は好きだったのですが、遠足や高校のクラス行事など、集団行動でのハイキングは、つらいという記憶だけが残っています。大勢で行くとどうしてもペースが速い人、体力がある人に行動が引っ張られますし、ゆっくりでもいいと言われても、迷惑をかけたくない思いが無理をさそうので苦しくなります。気を遣って話しかけられても、気遣いに応え ようと気遣うので余計に苦しくなります。
ところがある時、少人数で大荷物を手分けして担いで登るため、自分で楽なペースを探さざるを得ない中で、ひどい苦しさを感じずに登り続けられる方法があることに気が付きました。それは、一つは歩く速さのコントロールです。人に合わせたり一定にするのではなく、自分の体の供給力に合わせるのです。具体的には、心臓の鼓動と呼吸のリズムを歩きながら自分で観察し、それが一定になるように歩行の速さを調整します。外見からは傾斜にペースを合わせているように見えますが、そうではありません。内的なコントロールであることが本質です。筋肉の使い方にも当てはまります。筋肉にためられたエネルギーを瞬発的に使ってゆくと疲労がたまって行きます。定常的に補充されるだけの量を使うように、筋肉への負荷のかけ方や使い方を工夫します。

もう一つは、歩行する時間と休憩の時間に一定のリズムを作ることです。これはどの山の本も推奨しています。具体的には、25 分歩いて5 分休む、50 分歩いて10 分休むなどと決めておきます。休むのは、もう体力の限界が来たり我慢ができなくなったからではありません。上のように定常的な供給力に合わせれば、休まず登り続けることもできますが、それでも気分を転換し、体調と気力を整えるために休むのです。我慢ができなくなった後では、5 分や10 分程度では体力は回復しませんし、次の歩行を開始する気力も戻らず、リズムが乱れ、苦しさがつのって行きます。歩いている間の25 分あるいは50 分の心の持ち方も重要です。まず半分までは、時計には目もくれず無心で歩きつづけることに集中します。時計を見たら、再度残りの半分までを目標に無心で歩き続けます。だんだん萎えてくる気力に反比例して目標到達時間が狭まり、休憩への期待が増してくるので、何とか歩き続けられます。

この「発見」の後、何か悟った感じがして自信が生まれ、人並みの体力を付けなければという思いもあって、年に数回は山に行くようになりました。ただ、これは良いことだけではありませんが、自分でペースを決められるように、一人やごく少人数だけで行くことが多くなったのは事実です。研究でもそうで、自分で課題と目標を設定し、周囲にとらわれず、自分でペースとリズムを作って遂行してゆくことが私の流儀になってゆきました。
自分に、また研究室で学生に日頃求めていることは、無理に至らない努力とがんばりということです。無理に至らないという意味は、楽をするとは全く違います。目標は、若干は苦しいが何とか定常的に続けられる程度に設定しなければいけません。それが楽に遂行できるようになったら、もう一段目標を高めます。自分の気力と体力を「生かさず殺さず」使いながら高めて行くということでしょうか。もちろん「生かさず」は「楽させず」の意味です。研究にリズムを作り、頭の整理と新たな視点の発見のための定期的な発表・討論の機会も重要です。私の研究室では「検討会」と称して毎週金曜の夕方がその時間で、これが終わるとようやく週末の開放感という段取りです。

図2. 沼田のキャンプ場での昨年の研究室の夏合宿。夏は自然の中で過ごすのに最も良い季節。長い休みは自分の課題に自分のペースでトライする絶好の機会でもある。

もう一つ、私ががんばり続けるために採用している方法があります。それは水泳の時です。近くにスポーツクラブがあり、私はその20 年来の会員です。毎週土日に、昔は1 日に3km 近く、現在でも2km位は泳いでいます。この時、例えば1 泳法について、プール長25m に対してその12の倍数倍になるような距離を目標に決めます。12 × 25m = 300m、12 × 2 × 25m = 600m というような具合です。こうすると何が良いかと言うと、それまでに泳いだ距離の目標距離との割合が、きれいな整数の分数で並びます。そして、その間隔が心理的に絶妙なことです。目標を立てても、その苦しさが予想されるものだから、なかなか始められないことはよくあります。特に半分を目標に設定する場合がそうです。半分は既に遠いのです。しかし、上記の方法だと、まず始めるだけでつい乗せられてしまいます。すなわち、600m に対してプールを1 往復50m 泳ぐと「まだ1/12 か」となりますが、もう1 往復泳ぐと「え、もう1/6 も来たのか」 となり、さらに1 往復泳ぐと「もう1/4 も来た」、さらに1 往復泳ぐと「はや1/3 だ、よしがんばろう」となります。1/3、 1/2、 2/3 の間は100m づつでやや長いので、ここだけは無心になって乗り切ります。すると、残りは1 往復50mづつ、「あと1/4」「あともう1/6」「あとたった1/12」と分母の数字の急激な増加に励まされて、泳ぎ切れてしまえます。
泳ぎ終わった後の開放感とビールのおいしいこと。これを味わうのもペースとリズムのうちでしょうか。

無心になるとは、心に余計な感情の発生を抑えることで、感覚に集中し理性を効かせる観察と思考の場面にも当てはまります。私も、暑さを忘れ、緑豊かな自然の中で不思議の観察と思考を楽しみながら、新しい課題へチャレンジし、できれば将来のセンサの開発につなげてゆきたいと思っているところです。