東京大学 情報理工学系研究科 システム情報学専攻 教

安藤 繁

...もっと見る

叙情的な表題ですが、工学が専門の私が書くのでそういうことではありません。信号の時間波形の普通とは違う見方に関するお話です。

私が大学院の博士課程の頃、他研究室で博士をとられた大変優秀な先輩が、私がいた研究室に1年ほど助手として所属されたことがありました。その方は音声や生体信号の解析がご専門で、私のいた研究室では光学情報処理が主要なテーマだった関係で、それらを結びつけ、音声信号の解析を光で行うというテーマを学生実験として取り上げました。私は自分の研究の傍ら、どのように行うのか興味津々で見ていました。その方法とは、母音をリサージュ図形によって 2次元パターン化し、それを光学的相関によって標準パターンにマッチングしようというものでした。
リサージュ図形とは、波形の振幅を横軸、その時間微分を縦軸にとった軌跡のことです。縦軸と横軸のスケールを上手に合わせると、1 方向に回る円が複雑に重なり合った形となります。私は、この実験を横から見ていて、リサージュ図形のところどころに鋭角部や折り返しが現れたり、移動速度が遅くなったり速くなったりして軌跡の明るさが変化することに興味が引かれました。軌跡が何かに引きつけられたり躊躇したり、反射しているようにも見えます。オシロ スコープとは対照的表現ながら、波形の性質を良く捉えているのは明らかです。観察すればするほど面白く不思議で、どのような理屈が背景にあるのか、そもそも波形の時間的特徴はどのように捉えればよいのかなどと、その場だけの興味を超えて、深く強い問題意識として植え付けられました。

再びこの問題を考え出したのは、私が助教授になり、 センシングの研究に本腰を入れだしたあたりからです。当時、私は卒論生らとともに超音波による反射体の識別を試みていました。対象にガボア関数などの狭帯域のパルス波形を送信すると、それらは正面を向いた面や端部などで反射し、振幅と時間がずれ て戻ってきます。それらが重なりあうと位相が揺れ動くような正弦波となり、その包絡線にも多数の極大極小や変化点が現れます。これらをうまく分離して特定できれば、反射体の形状が読み取れることになります。
このような研究を行っている中で、以前の問題意識が目を覚まし、そもそも波形の時間的変化の由来やその記述方法はどのようなものか、それらの特徴点の最も良い検出方法は何かなどに興味の中心が移ってゆきました。

大きな展開があったのが、波形を要素波形の積に分解する考え方にたどり着いた時です。結果として得られる解釈は、時間軸を進行する点が、その回りに分布する「特異点」から受ける影響の乗算的合成として波形が生成されるということです。その「特異点」に近いほど受ける影響は高まり、波形を大きく変化させます。この考え方を日常語で説明するのは大変難しい。しかし、学部教育で習う範囲で理解でき、複素数の本質と魅力が現れているので、分かった後では波形とその背景を見る目が間違いなく広がります。読み取っていただくことを期待しますが、時間がなければ物語風のたとえまでとばしてください。

図1. ケンブリッジ大学のKing’s Collegeの壮大な建物。英国の歴史と、学問をもつ誇りが生み出した景観であろう。私は、空と建物の境界や尖塔、窓の並びに、沸き立ち重なり合う波のようなリズムを感じた。(2008 年7月、筆者撮影)

信号を和に分解して解析することはよく行われます。その代表がスペクトル解析やウエーブレット解析ですが、周波数成分への展開が基本で、波形の時間的変化に着目したものではありません。他方、積への分解はちょっと想像しにくいですが、虚部を補って複素数化した後では比較的容易に考えられます。信号に、振幅と位相という新たな表現が可能になるからです。この表現のもとでは、波形の積の振幅は要素波形の振幅の積に、積の位相はそれぞれの位相の和 になるので、振幅が一定な要素波形と時間変化させる要素波形、位相が一定に進む要素波形と時間変化させる要素波形というような分解が考えられます。

それでは積への分解とはどのようにすればできるのでしょうか。そのスタートは和への分解にあります。波形を基本周波数の整数倍の周波数成分の和に展開します。フーリエ級数展開です。このときの要素波形とは、複素正弦波1、 ejω0t、 e2jω0t、 ・ ・ ・です(ω0 は基本周波数、j は虚数単位)。z = ejω0t と置き換えると、1、 z、 z2、 ・ ・ ・ のようなべき項になっていることに注意してください。フーリエ級数展開とは、信号をz =ejω0tの多項式で表すことなのです。これを積の分解に置き換えるのは、中学数学以来おなじみの因数分解です。因数分解により、多項式は1 次項の積に分解されます。因数分解された1 次項が零となるz は零点と呼ばれます。i 番目の零点をαiとすると、積の分解の要素波形とはejω0t i ということです。

この要素波形が、振幅と位相をどのように時間変化させるかを考えて見ましょう。z = ejωt は複素平面の原点を中心とする半径1 の円周(単位円)上を、波形の1 周期に1 回転の速さで回転運動します。要素波形z -αi の振幅は円周上の点z から零点αi までの距離、位相とは円周上の点から零点を見る角度になります。零点が原点に近い位置にあると、要素波形はほとんど正弦波になります。振幅は変化させず、位相は一定に増加するだけです。これは時間変化を生じさせない波形です。これに対して零点が単位円に近いと、要素波形は特異な振る舞いをするようになります。円周上を移動する点が零点に近づくと振幅が急激に小さくなり、通り抜ける際に位相が急激に進みます。時間変化を生じさせる波形がこれになります。

その後、これを時間軸が実軸となるように座標変換すれば、より直観にあった解釈ができることが分かりました。表現がオシロスコープの波形表示に近づきますし、時間軸の旅人にも印象を重ねられます(単位円上を歩く座標系でも、輪廻や転生、内的世界と外的世界の対照など、それなりに興味深いたとえが考えられますが)。

物語風に述べると下記のようになるでしょう。複素平面の実軸(時間軸)を一定速度で歩む旅人がいます。細い一本道の側方は虚軸です。実世界に生きる旅人は、この道をはずれることはできません。しかし、旅人への影響は空間全体から及んできます。
旅人はその周囲に分布する零点を眺め、それらに相応して心を動かされながら歩き続けます。遠くの零点は遠方にかすむ山々のようです。旅人のはるか側方をゆっくりと動き、眺める向きは前方から後方へとゆるやかに移って行きます。向きの変化に時の移ろいは感じるものの、眺める心は穏やかなままでしょう(これに対応する要素波形は、振幅一定で位相が時間線形に増加する正弦波になります)。近くの零点は道ばたに咲く一輪の美しい花のようです。旅人の目 の前に急に現れたかと思うと、振り向いた視線の先にもう遠ざかってゆきます。心は大きく揺り動かされずにはいられないでしょう(これに対応する要素波形は、零点付近で振幅が急激にディップし、位相が急激に回転するものになります)。これら、旅人の一つ一つの心の動きを乗じたものが、波形として目に見えるものになります。

お気づきの方も多いかと思いますが、この見方は周波数特性を極点と零点と虚軸(周波数軸)で捉える考え方と、時間と周波数という空間の違い以外はほぼ同一のものです。周波数特性は、近い零点のそばでは急激なディップを、近い極点のそばでは急激なピークを生じます。そして、それらを過ぎるたびに位相は回って行きます。このように、波形の包絡線の極大や極小、変化点などの特異点は、その付近の零点の分布に置き換えて考えることができるのです。数学的には全く等価な表現なので、見方を変えても情報を取りこぼす心配はありません。そうだ、零点検出こそが多くの問題に共通する本質ではないか、と以前からのもやもや感がクリアに整理され、以後の私の方針が明瞭化されました。また、この考え方は、当時の博士課程の大学院生(現在はある研究所の准教授)が時間と周波数の複素平面に一般化し、今ではとても美しい理論的枠組みを構築するに至っています。

図2. 断面に多数の零点を規則的に配置した多重零点光ビーム。左は強度の断面、その右はその位相分布をカラーで表現したもの。このような光ビームは、右の写真のようなホログラムにレーザ光を照射することで容易に作成される。

私は、この複素場の零点の方法論をセンシングの中でもっと広く活用したいと考え、盛んに取り組んでいます。上の図は、光のビームの中にたくさんの零点を作り出し、光ビームの断面に位置情報を埋め込むことで、遠隔で多次元の変位計測を非常に高い精度で行おうとするものです。このような零点を含む光ビームは、Laguerre-Gaussian ビームという渦をもつ光ビームの合成形となり、ホログラムを利用すれば容易に作成できます。建築土木構造物の健全度や安全性の把握への関心の高まりを受けて、国のプロジェクトの中で開発を進めています。日本を代表する強力な企業の参加も得られ、これからの幅広い応用展開が期待されます。

センシングに求められるのは、事物や現象の関連を捉える方法論の豊富さと多様さです。私も、不思議の観察と思考を楽しみ、他の学問の成果を自分の問題意識で眺めながら、新しい課題へチャレンジし、できれば将来のセンサの開発につなげてゆきたいと思っているところです。