東京大学 情報理工学系研究科 システム情報学専攻 教

安藤 繁

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金子成彦先生から引き継いで、 このコラムに雑文を寄稿させていただくことになった安藤です。読みやすく、それでいて印象に残るような記事が書ければと思っておりますが、どうなることでしょうか。読者の皆様のご協力をよろしくお願いいたします。

Whispering Gallery

私は、大学で計測工学の教育と研究を行っている人間です。音や光、画像などのセンシング手法、センサのデバイス開発、信号処理や逆問題などの数理的手法などが主要なテーマです。私が「計測」という言葉に関心をもったのは高校生の頃です。もともと物作りは大変好きで、木工、鉄道模型、アマチュア無線、オーディオ機器の自作、関連する金属加工など、今でもそうですが、作ることには何でも手を出して熱中しておりました。しかし、雑誌にのる製作記事などをまねして喜んでいるだけではいけないと思い、かといって自分で工夫してやってみると失敗続き、やはり、もっと深いところから理解した上で生み出すのでなければ、作ることにはらないと感じ始めておりました。何かの啓蒙記事を読んだのだと思いますが、深く理解し工夫して新しいものを作り出すということが「計測」にたくさんあると強く感じて、この道を目指したわけです。私にとっての計測の面白さとは、色々な自然現象や生物の仕組みに不思議を感じ、まずはそれを推論し解釈することを楽しむこと、次にはそれを自分のものとして捉え直して人工的な装置として実現してゆくことにあります。成功例が多いわけではありませんが、これらの過程の中で得た観察や知見から話題を選んで記事を書いてゆきたいと思います。

図.1 セントポール大聖堂。ロンドンの金融 街「シティー」にある英国国教会の大聖堂 で、テムズ川の流れもわずか南にある。 (2008年7月筆者撮影)

表題のWhispering Galleryとは、音の伝搬の不思議な現象として有名なものです。ご存じの方もいらっしゃると思います。もとは、英国の物理学者Load Rayleighが ロンドンのセントポール大聖堂のドームの回廊でこの現象に気づき、名付けたものです。大きな丸屋根の回廊の内側に立つと、回廊の反対側の人の話し声がささやきまで良く聞こえるという現象です。

この現象には二つの説明がされているようです。一つは、音が丸い回廊と丸屋根とで反射され、反対側にちょうど音源の像が形成され、集中することで大変よく音が伝わるという説明、もう一つは、回廊と丸屋根に沿って特別な音の伝搬モードが形成されるという説明です。

音が球面鏡の結像作用で遠くまで大変良く伝わることは、 私も実際に確かめたことがありました。五月祭(東大の学園祭)の時に、学生委員だった私に学生が学科の建物の前で音のレンズの効果の実演をやりたいといって相談に来たのです。そこでオフセット印刷の薄く大きなアルミ原板の廃板を思い出し、学科の先輩の会社からもらってきて直径3m近い放物面鏡を2台作らせました。これらを数10m離れて正確に向かい合わせたところ、一方の焦点においたラジオの小さな音が、他方の焦点に耳をあてると見事に聞きとることができました。焦点をちょっとでもはずれれば、音が鳴っていることすら全くわかりません。これには学生も私も本当に驚き感激しました。

図.2 セントポール大聖堂の内部と円形ドー ム。Whispering Galleryは縦長の窓群の下 方にある。(2008年7月筆者撮影)

しかし、円形の回廊や球形のドームではこれは起こりません。ちょっと計算すれば分かりますが、半径Rの球面鏡の上にある音源の像は球面の反対側から2R/3の距離に結ばれ、球面上の1点には集まりません。これでは感度高くささやきが聞こえるとは言えず、自由空間の音の伝搬と反射では現象が説明ができないということです。Rayleighが考えたWhispering Galleryが生じる原因はこれとは違います。 音は壁にそって特別な形態で伝わるということです。

丸い回廊では、音は壁に沿ってまっすぐ伝わることはできません。壁がまっすぐでも、壁にそって伝わる音の伝搬速度は自由空間より低くなることが知られています。さらに壁に近いほど円周の長さは長いので、音は壁に近いほど速く伝わらないと壁に沿った波動場は形成されません。これらを満足するような音の伝わり方は、このような形状に固有なもので、この発見にちなんでWhispering Gallery Modeと呼ばれます。 壁に沿った薄い範囲のみに音が集中し、それに接する自由空間中には、この波動と矛盾のない(周波数と波長と音速が自由空間波動場の関係を満たす)音波は存在しません。壁沿いにトラップされて外に出られない音ということです。この場合でも音は左回りと右回りの二通りで伝わりますので、多くの周波数成分が干渉して強め合う正確な反対側でないと音は大きくはなりません。

というようなわけで日に日に興味がつのって来たので、一昨年に学会参加の目的でケンブリッジに行った帰りに、セントポール大聖堂で実際に体験してみることにしました。セントポール大聖堂は、ロンドンの金融の中心街でテムズ川からちょっと北に行ったところ、地下鉄のSt.Paul’s駅を出るとすぐ目の前にあります。まさに大英帝国の誇りというような巨大な建物で、正面の荘厳な列柱や中央にそびえる大きなドームに圧倒されます。中に入ると全体が広大な空間で、特にドームの下はドームの丸天井までの高い吹き抜けになっています。さっそく、わきの階段からドームの内側の縁にある回廊、Whispering Galleryに登りました。同じことを考える人が多いのか、アルバイトらしい女学生が数人しっかりと見張っていて、残念ながらWhispering Gallery自体の写真はとることはできませんでした。壁面はしっくい(?)のような凹凸のない円弧の表面で、音の伝搬にはいかにも都合がよさそうです。二人で行けば、それぞれが反対側に立って詳しく調べたいところでしたが、一人だったので、動きながら見学客の話し声を聞いてみるしかできませんでした。それでも、壁に沿った1mくらいの幅は、明らかに聞こえる音の性質が違います。音の質だけでなく、音の距離感がないのは印象的でした。聞こえる音が耳元のささやき、あるいは頭の中に定位するような不思議な感覚です。回廊からドーム下の空中へ頭を乗り出すと音の環境は通常通りの印象で、1階を歩く人の声が広大な室内らしい距離感や反響とともに聞こえてきます。

残念ながら、これ以上のことは分からず、じっくりと観察と思考の時間をとりたいと思いつつも、あわただしく空港に向かうことになってしまいました。

図3. セントポール大聖堂のドームの外の展望回廊から見るテムズ川とロンドン中心部。ビッグベン(英国国会議事堂の時計台)も見える。右側はセントポール大聖堂のもうひとつのシンボルである時計台。(2008年7月筆者撮影)

最後に、私の研究上の興味との関連も少し述べさせていただきたいと思います。私のWhispering Galleryの現象に関連する興味は、自由空間を伝わる音が壁面に(かなり斜めから)近づいた場合、Whispering Gallery Modeのような壁沿いの伝搬モードに音がトラップされるかどうかということです。 というのも、私は人間の聴覚系を模倣したセンサというのも重要なテーマにしていて、その中の一つとして、人間の耳翼の形の由来に興味をもっているからです。人間の耳の特有の溝状のくびれは、反射板というよりは音を吸い寄せて流すチャンネルを想像させます。家で飼っている犬や猫の耳を抱きながら覗いてみても、(たまに迷惑だとばかりかまれたり引っかかれたりしますが)その奥にはいかにも不思議なまがりくねった溝が掘られています。反射板のように見えるそばだてた耳の部分も、反射して空間に戻すというよりは耳の表面に沿って伝搬させるような角度に向いているようです。自由空間中の音が、耳翼に捉えられ耳の穴の中に(おそらく大変効率良く、また機能を果たしながら)吸い込まれてゆくメカニズムには、明らかに未知な何かがあるはずです。これからも、日頃の不思議の観察と思考を楽しみながら、できれば新しいセンサの開発につなげてゆきたいと思っているところです。